嶽本野ばらロングインタビュー 2002年6月号

インタビューロングバージョン

2002/6/1

■『レディメイド』
 ──絵画のメタファーで人間関係を描く

 吉屋信子の『花物語』からハローキティまで、近代以降の少女文化のコンテクストをサブカル的文脈から大胆に再編集するとともに、被服へのリスペクトを独特な視点でテーマ化することによって新しい表現領域を開拓した嶽本野ばらさんの文学は、十代後半から二十代前半の“乙女”たちを中心にした層に絶対的な支持を得ている。
 三つの短編、中編から成る『エミリー』は、野ばらさんにとって五冊目の作品集。冒頭を飾る『レディメイド』は、野ばらさんの作品には珍しく特定の洋服ブランドが登場しない。

 この作品は、昨秋から今年にかけて開催された「MoMA ニューヨーク近代美術館名作展」の特集号に『フィガロジャポン』から依頼を受けて書いたものです。MoMAを舞台にした恋愛小説をということでしたが、発表媒体がファッション誌ということもあって、特定のメゾンの名前が出せなかったんです。刊行にあたっては、若干、加筆しています。

 語り手の「私」と彼女が思いを寄せる職場の先輩の「貴方」は、MoMAに収録されている二人の画家、マティスとデュシャンをめぐって絵画論を戦わす。二人の画家の資質の違いが、「私」と「貴方」の価値観の違いを表している。絵画のメタファーによって人間関係を描くという、これまでの嶽本作品にはみられなかった新しい方向性が示されている。

 僕はこれまでお洋服を作中人物の心理や状況のメタファーとして使ってきましたが、『レディメイド』に関しては、物理的な制約によってたまたま芸術作品に置き換えられたということですね。そういうパターンもこれからはありだと思います。

■『コルセット』
 ──“拘束”をめぐる物語

 野ばらさんはこれまで書き下ろしを中心に創作活動を行ってきたが、『コルセット』は『レディメイド』同様、雑誌発表作品。中間小説系の文芸雑誌『小説すばる』に掲載された中編だ。

 『世界の終わりという名の雑貨店』と『ミシン』を書き終えた後ぐらいに時間的な余裕ができて、そのときに書いた作品が『コルセット』なんです。ほぼ完成の状態でしたが、完全に仕上げることなくそのままにしておきました。

『小説すばる』からお話があったときに、どうしようか悩みました。文芸誌に僕が書くことに意味があるのだろうかというふうに考えて、ほとんど意味がないような気がしたんです。僕の読者の多くは文芸誌を手に取ることはないだろうし、そういう雑誌があることすら知らない人が多いでしょうから。ファッション誌であれば他のページを楽しむことができるだろうけれど、文芸誌に載っている他の作家の作品にはほとんど興味をもたないであろうファンに、そういう雑誌を買ってもらうのは申しわけない気がして、文芸誌に発表することをずっと躊躇していました。
 結局、文芸誌に載せてみるのも作家の経験の一つだと考えて、すでに書いていた『コルセット』を完成させて発表したわけです。

『コルセット』は、友人の女性の自殺によって虚無感に取りつかれた主人公の「僕」が、行きつけの精神科の受付の「君」と出会うことで、生への意欲を取り戻していく物語。コルセットという被服の歴史にまつわる“拘束”の概念は、登場人物たちが直面せざるをえない制度的な拘束を表象している。その意味で『コルセット』は、被服の論理によって書かれた作品といえる。

 ライター時代に仕事で書評などを書く関係で、現代小説をかなり読みました。現代小説を読んで常々、疑問に思っていたことがあります。それはお洋服についていい加減に書く作家が多いということです。
 特に、ある作家の作品の中でのお洋服の扱われ方にショックを受けました。その作品の冒頭部分に、「コム・デなんちゃらの子供服を着た子供」というような揶揄的な表現があったのですが、これはコム・デ・ギャルソンの子供服が存在するという認識で書かれています。でもそれは明らかな間違いで、作者が書こうとしたのは、正しくはコム・サ・デ・モードですね。コム・デ・ギャルソンには子供服のラインナップはありませんから。もちろん登場人物のメゾンの認識が間違っていたというふうにも読めますが、おそらく作者自身がそういう情報をもっていなかったのだと思います。編集者や校閲の目を通りながら間違った記述のまま本になってしまったということであるならば、そういう間違いに気づかない出版界って何なんだろう、と思ったわけです。
 僕は単なるお洋服好きの人間ですが、お洋服をどう書くか、お洋服を通して何を描くか、ということについて無関心ではいられません。

「君」に一度きりのデートを申し込んだ「僕」は彼女にKEITA MARUYAMAのキャミソールをプレゼントする。この一枚のキャミソールが、二人の運命を大きく変えていくことになる。この作品では、KEITA
MARUYAMAのキャミソールのイメージが女の子の人物造形に直接、結びついたと野ばらさんはいう。

 物語を作るにあたって登場人物の設定をします。作家によっていろいろな設定の仕方があると思うのですが、僕の場合はまず洋服ありきで、今回の登場人物ははたしてどのメゾンのどんなお洋服を着るんだろうということを考えることから出発します。
 僕の作品の根底にあるのは、ハードボイルドの精神だと思っています。人からどう思われようが自分のルールというものがあって、そのルールにしたがって生きていくことがハードボイルドの精神の本質です。ハードボイルドは本来、男性のダンディズムに直結したものですが、現代の男性にハードボイルド的な生き方は可能かと考えたときに、僕はできないだろうと思ったんです。代わりにそれを実現するのは女の子だという確信がありました。乙女やロリータというキーワードへのこだわりは、そこから来ています。
 イメージが違うと思われるかもしれませんが、僕は大藪春彦が書くようなハードボイルド小説が好きです(笑)。大藪さんの作品を読んでいると、主人公が拳銃を分解するシーンなどが、非常に細かく描写されています。いったい何を書いているのか、銃マニアでないとわからないようなマニアックな描写があります。そうしたディテールを描き込んでいる所に、大藪作品のハードボイルド小説としての面白さがあり、大藪さんのこだわりがあると思うんです。本編のストーリーやテーマとは直接関係がないけれど、作品の中でディテールの描き込みが次元を異にするもう一つのテーマになっているんですね。そういう意味で、僕もお洋服のメゾンや被服のディテールを細かく執拗に描き続けているわけです。

■『エミリー』
 ──思春期の情動をいかに表現するか

 本書の中で唯一の書き下ろし作品となる表題作の『エミリー』は、読む者の胸に突き刺さる痛苦の物語だ。小学校三年生のときに性的な暴力を受けた女の子が、心の病を抱えたまま中学校に入り、そのことが理由でいじめの対象になり、居場所を喪失する。そんな彼女が出会ったのがEmily
Temple cuteのお洋服。同級生たちにエミリーというあだ名を付けられた「私」は、Emily Temple cuteのお洋服を身につけ、毎日のようにそのショップが入ったラフォーレ原宿に通いつめる。ラフォーレ原宿こそ、彼女が自分自身を取り戻すことができる唯一の居場所なのである。
 野ばら作品には欠落性を抱える主人公が共通して登場するが、エミリーもまた少女時代に被ったシリアスな経験に抑圧され続ける女の子として描かれている。

 自分でも意識をしているわけではないのですが、『世界の終わりという名の雑貨店』の中で自殺してしまう女の子は顔の右半分に大きな痣がありますし、『ミシン』の主人公は自分のことを醜く暗い性格と思い込んいます。『ツインズ』の女の子は、完全に頭がおかしくなってしまいます。
 僕は欠落性を抱えている女の子をずっと主人公にしてきました。なぜなんだろうとよく考えますが、結局、僕自身の中にある欠落感や欠損感を投影しているということなんだと思います。魂の五体不満足を抱えて生まれてきてしまったという気持ちが僕にはずっとあって、そのことで苦しんだ時期がありました。自分の欠落感を物語の登場人物の身体的な欠落や精神的な失調感覚に託して、表現しているんでしょうね。

 そうした欠落性を抱えた登場人物がお洋服に出会い、自分のためにお洋服を着ることで、抑圧から自由になる。お洋服はおぞましき“世界”から身を守る鎧であり、自分自身を確認するためのツールでもある。

 僕の作品の場合、過剰な自意識を整理するためにお洋服はあるんだということが、前提になっています。人間というのは自分のことが実はいちばんよくわからなかったりするわけですが、自分のあり方をある程度、整理しないと生きづらいもので、そういうときに自分の中で抽象的にもっている感覚を具体化してくれる装置がお洋服だと思うんです。不定形の自分を本来の形にしてくれる、自分が自分であるための鋳型とでもいうんでしょうか。それがお洋服だと思います。

『エミリー』の主人公は中学二年生、十四歳の少女である。野ばらさんが描いた最年少の主人公だ。十四歳の少女を主人公に据えた理由は、どういうところにあったのだろうか。

 中学生の女の子向けの、『ニコラ』というすごく売れているファッション誌があります。『ニコラ』では、雑誌に登場するモデルの女の子の撮影会やフリーマーケットなどをメインにした、「ニコラ読者開放DAY」というイベントを定期的に開催しています。そのイベントを見に行く機会があったのですが、中学生の女の子たちの掛け値なしの必死さに感動しました。フリーマーケットでお洋服を選ぶにしろ、モデルの女の子に握手をしてもらうにしろ、すべてのことに対して一生懸命なんです。高校生になると、そこまで不器用な必死さはなくなってしまいます。思春期独特のパワーを感じました。
『ニコラ』の関係者の人たちと一日会場にいたのですが、女の子の熱気と情熱にあてられてイベントが終わると腰が抜けるぐらいに疲れる、と彼らはいっていました。僕もその場にいながら、わけもなく涙がぽろぽろと出てくるのを禁じえませんでした。
 思春期の頃というのは、楽しかった人はいるのかもしれないけれど、少なくとも僕にとってはあまり思いだしたくない時期です。中学生になると、学校生活の中で実際の社会を体験することになります。先輩後輩という縦の関係が発生するし、校則という理不尽な取り決めにも縛られることになります。また、小学校の頃には男の子と女の子の関係はシンプルですが、中学生になると性の問題がリアルなものとして浮上してきます。思春期というのは、初めて世界と本格的に対峙する時期です。そういう環境の変化をすんなりと受け容れられない人は確実に存在していて、彼らは悩みもがき苦しむわけです。
 そうした内的葛藤を含んだ思春期の情動を、僕は解決できないまま大人になってしまったという気持ちをもっています。小説を書いている理由の一つは、そこにあると思います。そういう意味で、自分が抱えてきた問題の原点ともいえる思春期の情動をテーマにした作品を書いてみたいとずっと思っていました。
 少し前に草稿を書いてみたのですが、納得できるレベルまでいかなくて、しばらくお蔵の状態にしておいたんです。僕のホームページには掲示板があるのですが、最近、中学生の女の子も多く書き込みをするようになってきました。掲示板で彼女たちとやり取りをしていくうちに、中学生の女の子のメンタリティに対等な意識でシンクロすることができたような気がします。その経験もあって、『エミリー』を完成することができたのではないかと思います。

 昔から思春期小説というのは一つのジャンルとしてありますが、ほとんどの作品は大人の解釈が中心であったり、作者が思春期だったころの回想録の形をとっているんですね。かつての思春期を懐かしく振り返る作品が多いと思います。『エミリー』は、目線が完全に十四歳の少女なんです。最初うまく書けなかったのは、現在の僕の目線で書いていたからなんですね。十四歳の目線を獲得したからこそ書けた作品だと思います。

■恋愛小説を超えて

 野ばら作品のすべてには、一人称形式のモノローグ体が採用されている。主人公になりきり、語り手の目線で物語ることを重視する野ばらさんならではの美学に裏付けられた話体が採用されている。

 小説というものは不特定多数の読者に読んでもらう必要があるわけですが、エッセイにしろ小説にしろ、僕は特定の誰かに向けた手紙として書いているつもりです。世間の不特定多数の人間に対して何かをいいたいという気持ちはまったくありません。世間の人にどう思われようと、君だけには正確なこと、大切なことを伝えておきたい、という気持ちで僕は作品を書いています。
 野ばらさんの小説の登場人物には名前が付いていませんね、とよくいわれます。今回の三つの短編、中編でも、『コルセット』の希彌子さん以外の登場人物には、すべて代名詞を当てています。それはわざとやっているわけです。
 登場人物に名前を付けないで小説を書いていくのは、すごく大変です。特に『ツインズ』ではそれが顕著です。あの作品の中の「君」は、『世界の終わりという名の雑貨店』で自殺した女の子を指しています。彼女の死後、主人公が新しく出会う女の子も「君」と書きたいのだけれど、「君」と呼ぶ対象は自殺した女の子に限られるので、新しい女の子に名前を付けずに指し示すためは「彼女」という代名詞を使うしかありませんでした。でも一人の人間を「彼女」というふうに表記すると、作中の他の女性登場人物を「彼女」と書けなくなります。

 そういうわけで、一人称小説で登場人物を代名詞だけで指示していくには恐ろしく高等な技術が必要です。不特定多数の読者であるとしても、本を手に取って読んでくれた人に向かって僕はマンツーマンで手紙を書いているつもりですから、主人公が語りかける相手に具体的な名前を付けてしまうと、僕の意図とは異なる作品になってしまうわけです。読者が自分の物語として受け止めてくれるような形で小説を書きたいんです。「君」という呼称を用いる理由はすべてそこに尽きます。

 魂の欠落を抱えた人間同士が出会い、恋愛関係に陥る。野ばらさんの作品では、通常の男女の関係に限定されない広義の恋愛が描かれる。恋愛対象となるのは、主人公の自意識を映す鏡のような存在で、それは時に分身として、時に双子として表現される。野ばら作品において、恋愛は欠落した自分の片割れを探す自分探しの物語に重ねる形で描かれる。

 確かにそうかもしれないですね。僕が書いている作品を純粋な恋愛小説であるといい切ってしまうことに対しては、違和感があります。僕は恋愛というものを拡大解釈しているのかもしれません。
 自分がこれだと思うお洋服との出会いというのも僕にとっては恋愛に含まれますし、読者に対しても僕は完全に恋愛感情をもっています。僕は恋愛至上主義なんです(笑)。

「私」は、同じ中学に通う一年先輩の「貴方」に出会う。SUPER LOVERSを着こなす「貴方」もまた、ホモセクシャルな性向を理由にいじめに遭っていた。二人はお互いの性にまつわる秘密を語りあうことで、コミュニケーションの糸口を掴んでいく。かくして、男性恐怖症の女の子とホモセクシャルな男の子のカップルが誕生する。「私」はセックスを伴わない体の関係を「貴方」ともち、「貴方」が口にしたランボーの詩『永遠』によって“番い”の感覚に誘われる。不完全な個が合一し完全性を獲得するという神話的なヴィジョンが提出され、物語は締めくくられる。

『エミリー』全体を含めて、そうした部分はすごく重要だと思うんですが、まったく説明できない部分でもあるんです。『ミシン』を出したとき、文学の世界で仕事をする人たちはこの小説には何が書かれているのかまったくわからないという態度で接しました。でも十代の中でも限られたマイノリティの層は、文句なしに反応したわけです。

 そういう状況になると、批評家や書評家の人は無視できなくなるんですね。自分たちがもっているコードや方法論に取り込むような形で、僕の作品を解釈しようとするわけです。書評などで褒めてくださるわけですが、その文章を読んでみると、ポスト・フェミニズムを実践しているとか、そういう評言なんですね。そういうところを超えたというか、突き抜けたところからスタートしているのに、と思ったりするわけですが(笑)。
『エミリー』に関しては、嶽本野ばらという存在を本当は理解していないけれども理解していると思い込んでいる大人たちに引導をわたしたというか、やっぱり野ばらの作品はわからないと思わせるようなものを書いてしまったと思います。ある種のリトマス試験紙ですね。僕が書いてきた小説の中では性的なシーンがもっとも多い作品ですから、理解できない人にはただのエロ小説と受け取られてしまうかもしれません。
 グロテスクで卑猥なセンテンスやシリアスな状況が出てきますが、思春期の情動をいまだ抱えながらそれを整理できずに苦悩している女の子たちに、自分の物語として受け止めてもらえれば、作者として嬉しいです。彼女たちにはこの作品の根源的な美しさがきっと伝わると信じています。