うつ病、生活保護、自殺未遂…。貧困と心の病からどうやって「再生」したのか?

社会

公開日:2018/2/7

『この地獄を生きるのだ うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで。』(小林エリコ/イースト・プレス)

 短大卒業後に就職したブラック職場でメンタルをむしばまれ、自殺をはかるも一命をとりとめる。その後、精神病院に入院し、生活保護を受けることで「絶望のふちに追い込まれた」という小林エリコさんによる『この地獄を生きるのだ うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで。』(イースト・プレス)は、貧困と心の病気がテーマになっている。

 出版した当初、「『生活保護を受けてラクしやがって』とか『精神病は甘えだ』的な批判が一定数来る」と思っていたそうだ。しかし実際には「読んでよかった」の声が圧倒的に多かったという。そんな状況を「少し落ち着かない(笑)」とはにかみながら語る小林さんに、生活保護と精神障がい者の置かれた現実について伺いました。

■20世紀末は、ブラック企業に対する注意喚起が薄かった

 小林さんが短大を卒業したのは世紀末のこと。街には宇多田ヒカルやモーニング娘。が流れ、就職氷河期とはいわれていたものの、現在ほど労働問題が可視化されていなかった。当然小林さんも、ブラック企業に対する危機意識はなかったと語る。

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「最初に勤めた会社はエロ漫画雑誌の編集プロダクションで、給料は12万円。社会保険も残業代もつかなかったけれど、ブラックという認識はありませんでした。なぜなら当時の私は、どんな会社でも生活できる程度の賃金は支払うものだと、世の中を信じきっていたから。だから生活はとても厳しかったけれど、仕事や会社を疑う余地はありませんでした。残業代がつかないのが違法だということも、最近知ったぐらいです(苦笑)。当時はインターネットにも今ほど情報はなかったから、自分も情報弱者だったし、誰からも注意喚起を受けなかった。そんな感じだったから、おかしな状況だったことに気づけなかったんです」

 小林さんはいくつもの仕事を抱えたことでパンクし、21歳の時に自殺を試みた。生死の境をさまよったものの一命をとりとめ、都内の精神病院に入院。退院後に実家に戻り、精神障害者手帳を取得した。24歳で再就職にチャレンジするが、面接はすべて落とされた。再び自殺しようとした彼女に、病院のスタッフは生活保護を受けながら家を出ることを勧める。かくして生活保護受給者になり感じたのは、「この先に明るい未来などない」ということだったそうだ。

「生活保護って『ラクしてお金がもらえる』という偏見がありますが、実際に受けてみたら全然ラクではありませんでした。税金で生活していることに罪悪感がわいてしまい、恥の感情に身体がむしばまれるんです。作中に自殺した子が登場しますが、彼女も生活保護を受けていました」

■生活保護をやめるための情報は、驚くほど少ない

 小林さんのもとにはケースワーカーが訪問するようになったが、早く就労して生活保護を脱したいと願っているのに、どうしたら働けるかなどの情報を提供してもらえることはなかった。ネットで検索しても生活保護を始めるノウハウはあっても、やめる方法については見つからない。目に入るのは受給者への罵詈雑言ばかりで、頼れる人はいなかったと当時を振り返った。

「一時期あった生活保護バッシングみたいなのは、今は少し落ち着いた気がしますが、まだ残っていますよね。『金を渡すとギャンブルで使うから、現物支給にしろ』という意見もありますが。なぜ昼間からパチンコに行くのかということを見ていかないと、根本的な解決にならないですよね。女性の場合はネットでも『結婚して生活保護を抜けました』みたいなのばかりがヒットするので、まるで参考にならなくて。仕事を探して生活保護を抜け出す方法なども、受給する際に役所はアドバイスしてほしいと思います。もちろんワーカーさんの中にも熱心な人はいますが、私の担当者2人はいずれも熱心ではなかったので、本当に辛かったです」

 生活保護を受けながらデイケアを受診し、家とクリニックとスーパーの往復だけを続ける小林さんに、ある日副院長が「クリニックの新事業の、お菓子屋さんで働いてみないか」と言い出した。しかし一緒に働く3人の仲間もスタッフも、誰も商売の経験はない。ごっこ遊びみたいなお菓子屋は週3回、12時間働いても月給は1万円程度で、とても仕事と呼べるものではなかった。さらにクリニックは、ありえない治療を施すようになる。続きは後編にて。

著者、小林エリコさん

取材・文=今井順梨