『最高の生き方』ムーギー・キム対談【第4回 中島義道】 哲学者に「自己実現」は必要ない?――幸福を求めることが不幸を招く、の真意

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2019/4/11

 2019年3月末に新著『「あれ、私なんのために働いてるんだっけ?」 と思ったら読む 最高の生き方』を上梓した、ムーギー・キム氏。本書の中では、いわゆるエリート職に就きながらも働きがいや生きがいについて悩むビジネスパーソンの悩みに応えるべく、霊長類学・宗教学・哲学・心理学・脳科学の第一人者とともに、「価値を実感する生き方」を多元的に論じている。自らも多様なグローバル企業で活躍し、国際的ベストセラーとなった『最強の働き方』『一流の育て方』の著者としても知られるムーギー氏が、3部作完結編『最高の生き方』の真髄を本連載でお届けする。第4回は本書の第3章に登場する哲学者・中島義道氏に、「表面的な幸福感」や「わかったつもり」から逃れる、教養としての哲学についてうかがった。

哲学とはどんな学問か

ムーギー・キム氏(以下、ムーギー) 私は、投資やコンサルティングの仕事をしておりまして、学歴、職歴、年収に恵まれたビジネスパーソンと接する機会が多いんですね。彼らは大抵、とても幸せそうに見えますが、実はコンプレックスの塊で、苦しんでいる人も多い。そういった人たちの心の問題を解決するために、霊長類や脳科学などさまざまな分野の第一線で活躍されている先生にお話をうかがっておりまして。哲学的なアプローチについては、ぜひ中島先生にご教授いただきたくて、今日はこちらの哲学塾をお訪ねしました。

中島義道(以下、中島) もう少し正統的な哲学の人がいいんじゃないですかね。

ムーギー いえいえ、私の母も中島先生のファンなのです。まず先生にお聞きしたいのは、「哲学とは何か?」ということなのですが。

中島 哲学には、大きく認識論と存在論という枠があります。認識論は、科学的に世界はどうなっているのかわかるもの。存在論は、私はなぜいるのか、自我とは何かを問うもの。生物学的な意味ではなく、なぜ理性的な存在者として自分がいるのか、一生問い続けるのが存在論です。

ムーギー そのアプローチは、大半の人の思考より深く細かいですね。思考というのは、いくつかの前提を受け入れて、それをロジカルにつなぎ合わせていくものだから、その前提を仮にでも信じるしかないと私は思ってきたんです。その前提自体が本当なのか? と考えはじめると、何も前に進まないように思うのですが。

中島 それこそが哲学の問いで、科学的に考えるだけなら全然問題ないんですよ。でもたとえば、自由の問題は科学的には解決できない。自分が自由に選択しているつもりのことも、幻覚かもしれないわけです。

ムーギー つまり、自由意志は自由ではない可能性が大いにあると。自分が受け入れている前提は、社会や過去・現在の支配者から無意識に押し付けられたものも多くて、その枠の中で選択しているだけのこともたくさんありますからね。

中島 その背景にあるのは、やっぱりキリスト教なんです。すべてのことは、神が世界を創造したときから、見えない神の意志によって全部動かされているという議論ですね。アウシュビッツも原爆も。「スピノザの石」が有名だけれども、石は落ちるとき、自分で落ちていると思っていて、重力によって落とされていることを知らないわけです。でもその神の意志がわからない。

ムーギー 私は、“すべて神の思し召し”というのは宗教家や支配者が神の威光を強めるために創り出した物語に過ぎないと思っていました。しかし、神の決定論の根底には、有限の存在である人間が普遍真理などわかるわけがない、という考えがあるんですね。

中島 普遍的絶対真理たる神、という考えには、“神が矛盾した物事をつくるわけがない”という大前提があるんです。そして神がつくった世界は合理的だという信念があるからこそ、絶対的な真理の探究につながり、物理や数学が発達してきたわけです。

“偏差値の高い人”ほどはまる思考の罠

ムーギー ただ、物事は大抵、ランダムで予測不可能なので、統計的な正規分布に従うことが多いですよね。言葉の意味合いも人によってイメージするものが違うので、物事の価値判断は言語的に唯一絶対の定義ができるわけではありませんから。

中島 そういう話を聞いて面白いと思うのはね、フーコーの“知のエピステーメー”、すなわち、知のフレームワークに縛られていることです。私が今まで哲学塾で教えてきた1500人の生徒の中で、もっとも教えにくいのがこのタイプで、とても頭のいい人たちなんですね。東大・京大にはゴロゴロいて理系に多いんですが、哲学に一番抵抗を覚えて自分の考えの枠から出られないんですね。

ムーギー ということは、哲学のひとつの価値は、自分の考え方の枠を取り払うことでもあるんですね。

中島 そもそも何を問うかも、自分の枠組みに決められてしまっていますから。「私とは何か?」、「自己実現とは?」といった問いも、エピステーメーの枠に縛られた現代人の問いで、哲学の歴史から見れば普遍的ではありません。その代わりに古代では、「魂とは何か」、「死後はどうなるのか?」が問われていましたから。

ムーギー 昔、理解できないことは宗教という大きな領域に放り込んでいたわけですが、徐々に理解できたものから、これは医学、物理学、数学というように切り出していったのではないでしょうか。

中島 半分正しくて、半分間違っていますね。ニーチェが言った「神は死んだ」はごく一部の話であって、世界の7、8割は宗教を持っています。特にヨーロッパの歴史は、そのほとんどが“絶対的な真理がある”ことが前提で、言葉で表現できない、言葉に汚染されない真理を求める。哲学者のカントが言ったように、私たちが知っていることはとても限られていて、それは共通の幻覚かもしれない、という立場をとりますから。

ムーギー 確かに、言葉でわかるレベルの話って、言葉でキャプチャーできることだけなのに、世界の真相がまるで言葉の中にあるような錯覚を覚えてしまう、ということですね。

中島 でも、それでもいいじゃない、という立場をとるのが科学者なんです。