なぜ、出版社の文藝春秋がグルメ通販を始めたのか?

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更新日:2021/11/8

ニーズに応えた詰め合わせセット

 2020年10月、大正12年創業の歴史ある出版社・文藝春秋が食の通販サイト「文春マルシェ」をスタートした。すぐに数多くのユーザーを獲得した同サイトは、今年9月にサイト開設1周年を待たずして売上累計1億円を突破した。こうした好調の背景には“老舗出版社ならでは”のカルチャーがあったという。文春マルシェ部長の田中裕士さんに聞いた。

(取材・文=橋富政彦)

――文藝春秋が食の通販サイトを始めることに意外性を感じた人は多いと思います。「文春マルシェ」はどういった理由から始まったのでしょうか。

田中裕士氏(以下、田中):「文春マルシェ」は弊社の新規事業開発局の発案で始まった事業です。従来の出版活動の枠にとらわれない事業を考えたときに出てきたのが“食”だったんですね。これを意外と思われる方が多いのですが、実は私たちのこれまでの出版活動とグルメは親和性が高いものになっています。ロングセラーになった『東京いい店うまい店』や“B級グルメ”ブームの先駆けとなった文春文庫「B級グルメ」シリーズなど多くのグルメ本をヒットさせてきましたし、会社には“食通”と呼べるような社員も多いんですよ。

田中裕士氏

「文春マルシェ」のチーフ・プロデューサーを務める柏原光太郎は『東京いい店うまい店』を手掛けてきた編集者ですが、まさにそういった食通社員の代表的な存在です。大事な接待があるときに他の部署の社員が店の相談に行ったらずらっとリストを出してくれるような人ですから(笑)。そんな柏原が新規事業開発局長として新しい事業を考えたとき、“食”がテーマになることはごく自然だったと思います。そもそも、出版活動と食の通販はまったく異なるものではなく、重なるところも多いと考えています。

『BEST of 東京いい店うまい店』(文藝春秋編)

――それはどういうところでしょう。

田中:本や雑誌の企画を考えるときは、世の中の流れを見ながら、どのようなかたちで提案したら、より多くの読者に伝わるだろうかという“コミュニケーション”を考えることが重要になります。そういう意味では、「文春マルシェ」でもやっていることは変わりません。「文春マルシェ」のバイヤーを務める猪口由美は、20年以上にわたって全国各地の生産者を取材して、その食品を紹介してきた実績の持ち主です。そんな彼女が自信を持ってすすめる地方生産者のとっておきの商品をどのように紹介するか。あるいは、柏原がプロデュースに携わった「つきじ治作 水たきセット」など有名料理店とコラボした商品の魅力、美味しさをどう届けるか。それを考えることもまた読者との“コミュニケーション”のひとつなんです。

人気お取り寄せランキング1位は「つきじ治作 水たきセット」

――本や雑誌の誌面づくりと同じように通販サイトで読者とコミュニケーションをするということですね。

田中:「文春マルシェ」で文藝春秋らしさが表れているのも、ただの説明文ではなく、ひとつの読み物として“商品のストーリー”を伝えようとしているところです。写真も基本的に借りてきた商品写真ではなく、すべて撮り下ろし。弊社では『ベスト・オブ・○○』シリーズで、ラーメンや丼の写真を真俯瞰から撮影する手法を開発した実績がありますが、そうした社に長年蓄積された料理写真のノウハウを生かしたものになっています。そうやって販売している商品は「取材して試食してセレクト」というコンセプトの通り、私をふくめて7人のスタッフ全員が試食をしてそのクオリティを確かめたものです。

 事業拡大のための戦略として、割安の商品をずらっと揃えて広告をガンガン入れて儲けを出すというやり方はありますが、そういうことはしないんですね。それは、やっぱり読者の姿が向こうに見えるからです。文春マルシェでは『文藝春秋』『週刊文春』『CREA』といった雑誌と連動した企画を掲載していますが、雑誌の誌面で紹介された商品はやっぱり毎号しっかり売上が上がります。それを見ると、本当にそれぞれの媒体に支えられていることがよくわかりますし、私たちのよって立つ根本的なところを支えてくれるのは、やっぱり文藝春秋とこれまでお付き合いいただいてきた読者なんだと改めて感じます。それだけに誠実な姿勢をもって取り組もうと思いますね。

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食の通販も本のプロモーションも根っこは同じ

――田中さんは文春マルシェの部長に2021年7月に就任されたそうですが、もともと食に対する興味は強いほうだったのですか。

田中:美味しいものは大好きで食いしん坊だとは思いますが、評論できるほど特別に詳しいというわけではないんです。「文春マルシェ」を担当することになる前は、プロモーション部長としてコロナ禍での新しい戦略を練っていたところだったので、人事を聞いたときはさすがにちょっと驚きました(笑)。とはいえ、文藝春秋という会社はいろいろな部署に異動することが多く、私に限らず新しいものや珍しいものが好きという人が揃っているんですね。ですから、私も「では、この新しいところで何ができるのか」ということをまず考えました。

――田中さんはこれまでに文藝春秋でどういったお仕事をされてきたのでしょう。

田中:バブルが下り坂に入った頃の1990年に文藝春秋に入社し、『週刊文春』編集部に配属されてオウム事件を追ったり、書籍編集部で山本夏彦先生や椎名誠先生を担当したりしました。そこから広告部門を経て、『月刊文藝春秋』編集部で5年ほど仕事をして、またじっくり本を作りたいなと思っていたら、まったく畑違いのマルチメディア部(後のWEB事業部)に配属。このときは正直ちょっとショックと戸惑いもあったのですが、考えてみればこの会社に入ったのは、いろんな面白い人と出会って、応援したり、つないだりすることが好きだったからなんですよね。だったら、会社全体の担当編集になったつもりで、先輩、同僚、後輩たちが一生懸命作った本や雑誌、スクープをもっと世の中の人に知ってもらうための仕事をしようじゃないか、と。

 そこでインターネットやマーケティングの勉強を始めて『Number Web』『CREA WEB』といった自社メディアを立ち上げ、『週刊文春』特集記事をネットで早出しする「スクープ速報」といった取り組みを当時の編集長と一緒に考案。それからプロモーション部長として芥川賞・直木賞受賞作のプロモーション施策などをやってきました。「文春マルシェ」をスタートさせた新規事業開発局は同じフロアにあったので後輩の相談に乗ったりしていたのですが、まさか自分がそこの部長になるとは思っていなかったですね(笑)。

――本当にさまざまな分野の仕事をされてきたのですね。それでも食の通販というのは、かなり異分野で苦労もあったのではないかと思うのですが……。

田中:先ほども少しお話ししましたが、出版活動でもECでも大事なことは読者、ユーザーとのコミュニケーションを考えることだと思うんですよ。「文春マルシェ」は私が入る前から好調に展開していたのですが、マーケティングやPR施策という点では、まだあまり進んでいませんでした。そこでサイト内の導線を改善したり、『週刊文春』などの雑誌の読者層を考慮した連動企画やアンケートを考えたりするといったコミュニケーション的なマーケティングに手を入れることで、アクティブ率が大きく向上して売上も大幅にアップしました。『CREA』ともコラボ企画を展開していますし、また新しい見せ方が開発していけると思います。こういった仕事も根っこは本のプロモーションと同じなんですよね。

文藝春秋の培ったカルチャーから生まれた「文春マルシェ」

――これまでの「文春マルシェ」の運営から見えてきたニーズなどはありますか。

田中:「文春マルシェ」の購入者層を見ると、比較的シニア層が多くなっているのですが、売れ行きをみると豪華なものをドカンと購入するよりも、しっかり美味しいものが小分けになっていて、いつでも食べられるような商品の人気が高くなっています。シニア層の多くは子どもたちが家から巣立っていますし、ハレの日の豪勢な食事というよりも、日々の食事の中でちょっとした嬉しいアクセントになるものを求められているのかな、と。

 それと、コロナ禍の影響も大きいと思います。外食が制限されて仕事もリモートとなると、当然、食事は家でということになります。自分自身の経験からしても、会社勤めをしていればランチや会社帰りに美味しいものを食べて気晴らしができますが、そうもいかない。もちろん、家のご飯も美味しいのですが、たまには違ったものも食べたくなります。そんなときに、お取り寄せした美味しい地方の名産品や人気料亭の料理なんかが冷凍庫に入っていると、それだけで嬉しい気持ちになるものです。「文春マルシェ」の動きから、そういうニーズがすごく高まっていると感じましたね。

――日々のちょっとした楽しみを得るために「文春マルシェ」を利用しているということですね。

田中:そうですね。商品の動きや売上の数字を見ているだけでも、どんなお客様がどういう商品をリピートしているかなど、いろいろなイメージが具体的に見えてきます。そうしたコミュニケーションはやっぱり面白いですね。「文春マルシェ」で扱っている商品は、いわゆる生活必需品ではありません。これは食品であると同時に、ある意味で“エンターテインメント”なんだと思うんです。日々の生活にちょっとした楽しみ、華やかさ、彩りを提供しているものだ、と。そう考えると、文藝春秋がこれまで出版活動で行ってきたこととやっぱり通じるところがあるのです。私たちの仕事は、優れたコンテンツを揃えて、その魅力をわかりやすく面白いストーリーで伝え、より多くの人々に届けることです。そう考えれば「文春マルシェ」も文藝春秋という会社がこれまでに培ってきたカルチャー、文脈に沿った新事業といえるのではないかと思います。

●「文春マルシェ」公式サイトはこちら