芥川賞受賞後第一作『くるまの娘』宇佐見りんインタビュー!「人生って…取り戻せるものなんて、どこにも、ない」

小説・エッセイ

公開日:2022/6/7

宇佐見りんさん

 発行部数52万部を超えた芥川賞受賞の話題作『推し、燃ゆ』から約1年半。宇佐見りんさん待望の新作長編『くるまの娘』が刊行された。『文藝』掲載時から大きな反響を呼び、著者最高傑作との声も……。新たな衝撃作を生み出した宇佐見さんに、新作、そして小説を巡って、お話を伺った。

(取材・文=立花もも 写真=石田真澄)

〈「しんじゅうする。こんなんなったら、もう、それしかない」
 叫びは、喉ばかりでなく、見ひらかれた目から、両耳から、髪の毛先から、ほとばしった。〉――唾液や洟水、涙で濡れたハンドルを震える手でつかんで、家族の乗る車を暴走させる母。

〈「なんで生きてきちゃったんだろうな」〉――娘を助手席に乗せ、やはり震えるこぶしでハンドルを握りしめながら、誰にも言えなかった想いを吐露する父。
 家族の話を書こう、と思った宇佐見さんの脳裏に浮かんだのは、そんな、車中の場面だった。

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「その2つの場面は、かなり初期からイメージというよりは文章で浮かんで、書きだしていました。今作は“くるま”なんだなというのもそのときから決まっていて、場面を起点に物語を紡いでいった感じです。なんで車だったのかは、思い浮かんだから……としか言いようがないんですけれど、公道を走っているのに実は外からなかなか様子をうかがうことのできない密室であるところが、家族の姿に重ねられるような気がしました。移動していくものなので時間の流れに重ねられますし、火車……地獄につらなる業火に包まれた車というものもありますし、さまざまなイメージを連想し重ねていくうちに、家族という密室のなかでもがき苦しみながらも前に進んでいく“くるまの娘”が生まれていきました」

 17歳の高校生、かなこは、家族からかんこと呼ばれている。気丈だった母は2年前にわずらった脳梗塞の後遺症で笑えなくなり、幼児のように泣いたりわめいたりするようになった。その後しばらくして、かんこは突然、思うように体を動かせなくなった。かんこが学校に行かないと父は怒鳴り、嫌気がさした兄は学校をやめて家を出て、弟は母の実家近くの高校を受験し、祖父母の家に住んでいる。そんな家族が、父方祖母の危篤にかけつけ、久しぶりに一堂に会すこととなる。

 心も体もうまく現実に適合することのできない娘を視点人物に、心を病んだ家族を描きだすのは前2作……とくにデビュー作の『かか』と通じるものがあるが、今作で宇佐見さんははじめて、三人称の文体で家族を語る選択をした。

「明確な敵みたいなものをつくらないようにしよう、と思ったんです。『かか』も『推し、燃ゆ』も一人称だったから、主人公の見える、感じるものだけでしか世界を構成できなかった。その結果、父親の存在が希薄になり、敵……とまではいわなくとも、理解してくれない人、として描いてしまったことがずっと気になっていたんです。無理解な父、という存在を私が生み出してしまったのだ、と。どちらも、私の出せる最大より上の力で書ききった作品なので、“もっとああすればよかった”みたいなことはないんですけれど、3作目の今なら、同じテーマでももう少し深掘りして、俯瞰的なまなざしで書くことができるんじゃないか、と思いました。だから今作では、父親をどんなふうに描くかにいちばん心を砕きました。はたから見れば、暴力的で理不尽なところだらけのお父さんだけど、その背景は、歩んできた道のりは、どんなものだったんだろうと……。自分ひとりで書いているときは、どうしてもお父さん以外の誰かに肩入れしてしまいそうになるときもあったんですけれど、担当編集者さんが私の書きたかったものを丁寧に読みとってくださり、相談して、何度も修正しながら像をつくっていきました。結果、初稿と最終稿では見える景色が全然違うものになっていて、ここにたどりつけてよかった、と今はとてもほっとしています」

自立を最善とする裏側で起きているであろう苦しみ

 かつて母が酔って起こった喧嘩が近所に響き渡り警察が来たときのことを思いだして、かんこは思う。〈あのときひとつわかったのは、もし外部の力が働いたとしても、自分はこの家から保護されたいわけではないということだった。かんこもまた、この地獄を巻き起こす一員だ。〉〈みんな傷ついて、どうしようもないのだ。助けるなら全員を救ってくれ、丸ごと、救ってくれ。誰かを加害者に決めつけるなら、誰かがその役割を押し付けられるのなら、そんなものは助けでもなんでもない。〉

「私より少し上の世代だと、お兄ちゃんの立場にいた人がいちばん苦しんだんじゃないかと思うんです。長男なのに家を出ていくなんてとか、親の介護は長子の役目だとか、いろいろ言われて家に縛りつけられてしまった。けれど結婚し、家には二度と戻らないと決めて新しい家族を手に入れたかんこのお兄ちゃんは、かんこたちのことを〈自立していない〉と言う。かんこも、苦しいなら家を出ればいいのだと。でも、家族の面倒を見るべきだという言葉に苦しんだ末に逃げざるをえなかったお兄ちゃんと同じように、かんこは逃げてもいいという言葉に苦しんだまま、父や母を傷つけないため家にとどまることを選んでいる。そのどちらの考え方も選択も、絶対的に正しいものとして描きたくなかった、というのも三人称を選んだ理由のひとつです」

〈大人は、甘えることなく自分の面倒を見なくてはならないということくらい、とうにわかっていた。それが正しいかたちだと、言われずとも知っていた。だが、愛されなかった人間、傷ついた人間の、そばにいたかった。背負って、ともに地獄を抜け出したかった〉とかんこが吐露する場面がある。たびたび語られる自立に対するアンチテーゼは、当初、それほどの熱量で書かれていたものではなかったと宇佐見さんは言う。けれど、兄のような立場の人たちが自立を最善とするようになった社会の流れによって解放された裏側で起きているであろうことも書いてみようと思ったのだと。

「私も含め、人はみんな、自分の選んできた道を肯定したい気持ちを、多かれ少なかれきっと抱いている。一人きりで生活しているときは肯定するのもたやすいんですけれど、果たして本当にそうなのか? と今一度考えてみたかったですし、小説ならば、お兄ちゃんとかんこの選択が等価であるということも、描けるんじゃないかと思いました」

なぜとりかえしがつかないのか、という絶望を重ねながら

 祖母が亡くなり、告別式と葬儀に参加するため、兄をのぞく家族4人は車中泊をすることとなる。母があたりまえに笑っていた子どものころは、そうして全員で車中泊の旅行をすることもあったのだ、と思い出してかんこは〈あの頃に帰りたい〉と思う。決して巻き戻すことのできない時間、どうしてこうなってしまったのか決定的な理由もないまま壊れてしまった家族をもとどおりにしたいと願う姿は、母を産みなおしてあげたいと願った『かか』の主人公・うーちゃんとも重なるものがある。

「私自身、諦めがつかない人間なんですよ。何かとりかえしのつかないことが起きてしまったとしても“なんでなの?”と憤って、どうにかならないのかともがいてしまう。でもけっきょく、やっぱりもとには戻らないんだと痛感することばかりで……。でもきっと、人生ってそういうことのくりかえしなんですよね。取り戻せるものなんて、どこにも、ない」

 文庫化された『かか』には「三十一日」という書きおろしの短編が収録されている。愛犬との別れを描いた同作のラスト、〈終わる。終わっていく。戻ってはこない。なにひとつ取り返しがつかない。〉という文章も、痛切に、沁みる。

「もう少しフィクション性の高い物語を書こうと思っていたのですが、私の愛犬が亡くなったタイミングだったこともあり、それしか書くことがなくなってしまって(笑)。本当はもう少し、短編ならではの挑戦、みたいなこともしてみたかったんですけど……生き死にに関することは容易に言葉になってくれないものなのだな、と改めて感じました。実感があるからといってそのまま文章に起こせるわけではないし、胸の奥底に沈んだ書ききれないものは、きっと、何年もかけて消化していかなくてはいけないのだろうな、と。ただ、物語の起承転結がきちんと整っていなくても、自分のこだわりたい部分に悪い意味でしがみつきながら、いびつながらもなんとか形にすることができるというのが、純文学の自由なところなんじゃないかと思っていて。アンバランスでも、華々しくなくても、主人公がずっと納得できずに拘泥し続けているものを、ひたすらに追求することができる。正しいかどうかは別として、その執着を掬いとりながら小説を書いていけたらいいなと今は思っています」

自他ともに認める“普通”の人間には帰着しない

 思うように体が動かなくなり、学校にも行けなくなった自分をふりかえってかんこは〈人間でいるのがつらかった。人間でいることは許されない気がした〉とふりかえる。推しという背骨を失って人間らしくいられなくなってしまった『推し、燃ゆ』のあかりも、深い孤独から心を壊してしまったうーちゃんの“かか”も、笑えなくなって自分を取り戻せなくなったかんこの母も、みんな人間として生きていくことが苦しくて、もがいている。それもまた、宇佐見さんの拘泥するテーマの一つなのだろうか。

「物理的に生きていくことはできていても、人間としての尊厳を保てない時期というのがある、と思っていて。かんこの場合は、父からの暴力。あかりは、社会的に“普通”とされているものにずっと届くことができずにいる苦しみ。母たちもそうで、肉体的にしろ精神的にしろ他者から与えられる痛みというのは、人を矮小化していってしまうような気がするんです。だからあかりは、ラストで、異形ともいえる形で生きていくことをみずから選んだし、かんこは、人間的な生活を捨てることで自分を守ろうとした。もしかしたら、人間的な生活をちゃんと送ることができている人なんて実はそれほどたくさんはいないのかもしれないけれど、“これが普通の人間です”という場所には戻らない、というのが私にとっての肝なのかもしれません」

 その肝となる部分は、今後も家族をテーマに深掘りされていくのだろうか。

「これまでの3作で、自分が書きたかったことはある程度、書ききったような気がするので、これからはもっと新しいことを自由にやっていきたいな、と思っています。ただ、私はけっこう無意識で書いている部分が多くて、今回、『かか』が文庫化するにあたり改めて読み返してみたら“おお、こういうものを書けていたのか”と自分でもちょっとびっくりしたくらい(笑)。『かか』のときは、お皿に洗剤を垂らすというだけの描写も微細に描かれていて、物語の本筋とまるで関係ない情景も、見える限りは全部書こうとしていたんだな、と思いました。そういう、何かをとらえようとするまなざしが質感となり、自分の実力以上の小説を生み出すことに繋がっていくんだなあ、とも。私にとって、小説を書くうえでいちばん大事にしているのが解像度の高さなのですが、生き死にに関することがうまく言葉にならないのは、死というものがまだ手ごたえのあるものとして私のなかに根付いていないからというのもあるんです。本当に大事にしなくちゃいけないものは、安易に書いてはいけない。当事者を苦しめたり、加害につながったりするようなことは、してはいけない。当事者でないことを書くのであればそれ相応の覚悟をもって臨まなきゃいけない、と思っているので、これまでの3作は、比較的解像度の高い家族を舞台に、死に近いところにいながらもギリギリのところで生きている人たちを書いてきたんだろうな、と。ただ、そのテーマに一区切りがついた以上は、今後、調べて書くということもやっていかなきゃいけないだろうと思います。でも、同時に好きな作家をさかのぼっていく作業もしたいですね」

 たとえば、影響を受けた作家として公言している中上健次の作品を、改めて読み返す、とか?

「そうですね。ウィリアム・フォークナーや谷崎潤一郎の作品も、時代の流れをたどりながら、より深く掘ってみたいです。あとは、私はあんまり海外の小説を読んでこなかったのですが、河出書房新社からはたくさんのおもしろそうな小説が刊行されているので、最近、手にとりはじめたところなんです。自分自身のなかにあるテーマだけでなく、時代ごとに見える景色や、作家たちが描いてきたものの全体像を、いろんな角度から柔軟に探っていけたらなと思っています」

『くるまの娘』カバーイラスト
イラスト=上田風子

宇佐見りん
うさみ・りん●1999年、神奈川県生まれ。2019年、『かか』で文藝賞を受賞しデビュー。同作で三島由紀夫賞を受賞。20年に刊行された2作目『推し、燃ゆ』で当時21歳にして芥川賞を受賞、大きな話題となった。敬愛する作家は中上健次。とくに『岬』は何度もくりかえし読んだという。

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