麻原の四女が語ったオウム真理教・地下鉄サリン事件の裏にあった一つの事実

社会

更新日:2015/3/9

麻原逮捕の直前、家族には別れの時間が与えられた

 彼女が父の狂気をわずかながらに感じ取った翌年、1995年3月20日に地下鉄サリン事件は実行へ移された。その2日後には、警察が教団施設への強制捜査に乗り出したのだが、当時を振り返る彼女はその様相を「戦争が起きたのかと錯覚しそうな光景でした」と語る。

「父と母がどこいるかも分からず、姉弟の元にもたどりつけないほどでした。警察官と信者でごった返し、子どもの私は自由に移動もできなかったです。信者は口々に“警察が教団を調べているだけだ”と繰り返すばかりで、変なものが見つかるはずないと私も信者もみんな思っていました。しかし、連日の捜査が続いていたある日、第六サティアン内の食事を作る工場で、突然、ダーキニーと呼ばれる女性信者たちの悲鳴のようなものが聞こえました。床や壁はところどころ陥没して、解体工事かと思うほどの光景の中で私は男性信者に“どうしてこんなことをするんでしょうね”と尋ねました。“何も隠していませんよね”と彼に話していたところ、“いや……、壁の中から銃が発見されたそうです”と告げられて絶句してしまいました」

 それから約2カ月後の1995年5月、麻原は第六サティアンの入口付近の隠し部屋で身柄を確保された。当時「逮捕です。逮捕されました!」と繰り返していた報道を、授業中にも関わらず小学校の教室で観ていたのをよく覚えている。じつはこのとき、家族との別れを惜しむほんの少しの時間が麻原には与えられていたという。しかし、彼女は立ち会わなかったと語る。

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「父との別れを認めたくなかったのか、母と他の姉弟に自分の時間を与えてあげたかったのか、今となっては分かりません。ただひとつはっきりしているのは、色んな感情が渦巻いて行く気になれなかったのです。父が連れて行かれたあと、一つの部屋で私たち姉弟は肩を寄せあって座っていました。あとで聞いた話ですが、目を真っ赤にしていた次女と三女に父は何も告げなかったそうです。父が連行されたあと、母に“目が見えないけど大丈夫なの?”と尋ねました。母は“車椅子を用意してくれたから、大丈夫よ”と教えてくれたので安心しました。しかし、廊下にあった父がいつも座っていた大きな椅子にすがりつき、寂しさと不安がこみ上げて泣いていました」

 最後に、彼女はみずからの人生を「複雑な生い立ち」と表現している。国家をも揺るがすほどの犯罪をくわだて、実行した教団を率いた教祖の娘という事実は消せない。ただ、そのために凄惨ないじめや蔑視にさいなまれた経験も打ち明けてくれているが、数々の事件で犠牲に合った被害者への謝罪、そして、自身の人生を否定せず向き合ってくれた人びとへの感謝の念から、名前を掲げて同書を綴る決断をしたという勇気には敬意を評したい。この本にたまたま出会った一人として、いつかどこかで目を見てお話できる機会が来ればと願っている。

文=カネコシュウヘイ