【本当の戦国時代】当時の食事は、服はどんなものだった?

社会

公開日:2015/12/25


『戦国の風景 暮らしと合戦』(西ヶ谷恭弘/東京堂出版)

 戦国時代が始まったとされる時期は、実は関西と関東では微妙に違うことをご存じでしょうか。関西は応仁・文明の乱(1467~1477年)から、関東は享徳の乱(1454~1482年)からだとされています。ちなみに、時代の終わった時期は関西関東で共通しており、1590年の豊臣秀吉による天下統一を以て戦国時代が終わったとされます。

 100年以上続いた戦国時代は、現代においてもよく漫画やゲームの舞台に選ばれます。しかし、そういった創作の世界を通して見る戦国時代は、時たま本当の姿を見えなくしてしまうものでもあります。そんな「本当の戦国時代」を見ることができるのが『戦国の風景 暮らしと合戦』(西ヶ谷恭弘/東京堂出版)です。ここでは、当時の食生活や衣服などを中心に紹介します。

 当時の食生活は、一体どのようなものだったのでしょうか? 現代において、日本人の主食と言えば米ですが、これはどうやら戦国時代から変わっていないようです。当時の主食は、米をはじめとする麦・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)といった穀物でした。時には、大豆・小豆などの豆類がこれに代わることもあったようです。人々は、これらを飯(メシ・ハン・イヒ)と呼んで常用していました。ただし、米といっても現代の私達が食べているような白米ではなく、麦・粟などを混ぜたものでした。これは半白飯・黒飯などと呼ばれます。現代においては、健康食として時たま話題に上る雑穀ご飯などがこれに近いかもしれません。

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 また、米以外の食料ですが……鎌倉の出土品を見てみると、牛馬・鹿・猪などの獣骨をはじめ、加工された鯨の骨(多量)やハマグリなどの貝・魚の骨、さらには桃の種・クルミなどの果実の皮も出土しています。これらが皆当時の人々が食べていた物の残骸ならば、当時の食生活は意外に豊かだったと言えますね。ちなみに、戦場で利用される食糧(兵粮)は、蒸して水分を飛ばした米である「干米」や、ソバ粉ととちの実・大豆を混ぜ合わせ乾燥させた「兵粮丸」などが中心でした。これを作る料理人は「役者(やくもの)」と呼ばれます。更にちなみに言うと、料理人以外にも、医者、忍者集団など戦場で役立つ技能を持った専門家をこう総称していました。

 戦国時代が幕明けた頃の服装は、まだ平安・鎌倉時代の名残がある部分も多かったでしょう。しかし、時代が進んでいくにつれて人々は実用性を重視したデザイン・素材を生み出していきました。その代表格が「小袖」です。当時の民衆や武士階級の生産的・戦闘即応的な用途第一主義的な風潮は、行動的な小袖の身分階級(服制)を超えた一般化を導いたといわれています。現代に受け継がれている着物の原型となったとされる小袖は、戦国時代に広く普及したものだったのですね。

 また、戦国時代には武士の正装も変化します。戦国以前における武士の正装は、袍(ほう)をまとう束帯姿でした。袍とは、平安・鎌倉時代の貴族が着ていた狩衣(かりぎぬ)によく似たシルエットの着物で、現代の言葉でいうならば「上着」です。正装ということですから、戦国時代版のスーツとでもいいましょうか。しかし、織田信長像・豊臣秀吉像などの絵を見てみると、そこに描かれている2人はどうやら袍を着ていません。これは、戦国時代初頭から同時代の末期にかけて、武士の正装が大きく変化したことに起因しています。

 平安以来、袖なしの衣は貧困層の服装とされていました。ですが、時代が変わって武士が活動的にならざるを得ない状況になっていきます。そこで、活動に向かない袍から動きやすい襖(おう)が主流になりました。襖とは袖なしの上着のことで、有名な織田信長像が着用しているのもこの襖に分類される着物です。こういった襖(素襖ともいいます)が武家社会で定着していくにつれ、動きづらさの原因となる袖や胸紐などの飾りが省略されていきます。活動的で実用本位な襖は、戦国という時代の風潮にマッチしただけでなく、格式を表す家紋・旗印などを染め抜かれたことで、正装としても通じるようになっていきました。

 戦国時代と言えば戦……その戦で大活躍をする火縄銃ですが、天正12年(1584)時点で、3000~4000丁ほどが日本にあったといわれています。和銃である火縄銃は「瞬発式」の銃です。ちなみに、瞬発式というのは読んで字の如く点火から発射までの時間が短くなっている形式のことで、反対に「緩発式」の銃もあり、これは当時のヨーロッパで普及していました。銃の用途を考えると、当然ながら緩発式よりも瞬発式の方が優れているということになりますが、実はヨーロッパでこの瞬発式の銃が普及したのは、日本より大分遅れての1600~30年代のことだといわれます。これは、銃の導火線に火を付けるための火打石式発火装置がヨーロッパにおいて考案され、普及するまでの時間があったためです。日本の銃は、本場であるヨーロッパに先駆けた形式を持っていたのですね。

 戦国時代の食生活・衣服や、火縄銃について少し紹介しましたが、いかがでしたか。本当の戦国時代と、物語として描写されるそれは得てして違うものです。本当の姿を知ることで、そこを舞台にした物語をもっと楽しめるようになるかもしれませんね。

文=柚兎