「おたく」第一世代のトキワ荘!? 「おたく」文化転形期の目撃者となった著者が語る「二階の住人」たちの軌跡

社会

2016/6/2


『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史(星海社新書)』(大塚英志/講談社)

 アニメの歴史を変えたといわれる『宇宙戦艦ヤマト』の本放送時、私はまだ2歳だった。見た記憶があるのは、再放送だったのだろう。続くアニメ史に残る『機動戦士ガンダム』の本放送時には7歳で、クラスメイトに一人「すごいアニメが始まったぞ!」と興奮していた男子がいたが、毎回合体変形しないロボットに興味を持てず、全話通して見たのはようやく10歳になってからの再放送だった(でも、クローバー製のガンダムDX合体セットは親に買ってもらった)。

 そんな遅れてきた世代の私にとって、思春期から青年期にこれらの作品に触れた「おたく」第一世代というのは、羨望と嫉妬の存在である。『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史(星海社新書)』(大塚英志/講談社)は、その第一世代に当たる1950年代生まれの著者が、資料と関係者へのインタビューに自らの想い出を交えたエッセイだ。

 タイトルにある二階というのは、七階建てのビルの二階に入居していた徳間書店の第二編集局のことなのだが、ハガキ整理のアルバイトとして迷い込んだという著者によると、この二階では「交わるはずのない遺伝子が出会ってしまった」のだそうだ。というのも、二階には大衆誌の『アサヒ芸能』の編集部も入っており、その『アサヒ芸能』に配属されていたのが後にアニメ総合誌『アニメージュ』を創刊し初代編集長となる尾形英夫と、続く二代目編集長に就任してからスタジオジブリに籍を移す鈴木敏夫の2人だった。著者は『アサヒ芸能』のことを、「芸能」も「政治」も取り込んだ「リアルの側の匂い」と評しており、「『アサ芸』出身の人間がアニメ誌をつくっていることが許しがたかった」と、当時の若々しい想いを語っている。

 しかし、そういう「旧派の編集者」に導かれて、著者と同じように二階に漂着した「おたく」第一世代は活躍の場を得る。当時まだ録画機器が一般家庭に普及するには高価だった頃、誰に見せるためではなく自分のために放送リストを作り、名セリフを書き記し、同好の士を求めて上映会を開催したりしていた「おたく」たちが、欲しい物を商業の枠の中で具現化していく様子は、本書のあとがきで著者自身が「途中でまんがか小説の方がいいのではと思った」というほどドラマチックだ。

 そして、尾形英夫と鈴木敏夫といえば『アニメージュ』の創刊を経てスタジオジブリの設立に尽力することになるわけだが、その過程を著者は「いつの間にか立場が逆転していた」と述懐する。何が逆転したのかといえば、ブームになっていた『機動戦士ガンダム』に背を向けて、「まるで読者欄のファンみたい」に宮崎駿の特集記事を組んだのである。今でこそ名作として人気のある『ルパン三世 カリオストロの城』を世に出したとはいえ、興行的には不振だった作品の監督を推すのだから、プロの編集者としては暴挙である。実際、その号の返品率は他の号の平均が1割を切っていたのに対し、実に50%にもなったという。しかしそれでも、「好きで何故悪い」とばかりに宮崎駿に『風の谷のナウシカ』の執筆を依頼し、やがてアニメ史に残る作品が次々と誕生する。大衆誌出身の編集者と「おたく」第一世代との出会いが、スタジオジブリの誕生につながるというのは、それこそ歴史の妙というものだろう。

 戦後まんがの黎明期に才能ある漫画家たちが集まったトキワ荘の物語が漫画史において重要な位置を占めるように、「おたく」第一世代が集まったこの場所の物語もまた、アニメ史の中で語り継がれるものとなるかもしれない。

文=清水銀嶺