500人分・1億5000万円のおもてなし! 黒船のペリーを饗応した名店「百川」―謎に包まれたその真相が明らかに

社会

2016/12/28

『幻の料亭・日本橋「百川」黒船を饗した江戸料理』(小泉武夫/新潮社)

「百川」(ももかわ)という今は無き料亭をご存じだろうか? 江戸時代、日本橋浮世小路の東端……今の三越本店の向い側、コレド室町とYUITOの間を入ったところに存在した「高級料亭」だ。

幻の料亭・日本橋「百川」黒船を饗した江戸料理』(小泉武夫/新潮社)は、江戸料理の詳しい内容と、その名店に通う文人たちの交流を描くことで、当時をありありと浮かび上がらせている江戸の食文化エッセイである

「百川」は料理の素材、味はもちろんのこと、内装や食器、店員のマナーに至るまで隅々まで洗練されていた。大田南畝や山東京伝などの名だたる文人たちが集まり、彼らは日本橋の魚河岸で出荷される、新鮮な魚介類の料理に舌鼓を打ったそうだ。

 コースのお値段は最も下の等級で、現在の価格にして約1万6700円。豪華なものになると、3万3400円。庶民には中々手の届かない存在だった。

 さて、その「百川」は日本初(?)、対外国人への「おもてなし」を行っている。嘉永6年浦賀沖に黒船がやって来る。翌年、再び来航したペリー一行をもてなすため、「百川」はなんと、500人分(アメリカ側の300、接待する日本人分200)の饗応料理を準備することになる。現在のように、工場での大量生産も大型冷蔵庫もない時代。500人分の料理を用意するのは並大抵のことではない。

 しかも、ただ料理を出すだけではないのだ。

「これは日本国の威信と面目をかけたものであるから、一流料亭の料理をしのぐ本膳料理を出してもらいたい。材料も吟味して、これぞという物を揃え、食器も酒器も、とにかく豪華なものにして、亜墨利加(あめりか)人が目を剝くようなものにしてもらいたいのだ」と、幕府側からの指示。

「百川」の主人、百川茂左衛門は頭を抱えた。「本膳料理」は、膳が進むたびに使った器を下げ、また別の器で料理を出す。500人相手にその作業をするのも厄介な上に、料理に使う器は少なくとも15種は必要になるとか。つまり単純計算で7500個の器を用意しなければならない。

 しかも、「日本国を代表した」、日本で一番の「おもてなし」にしなくてはいけないのだ。器でさえ、その場しのぎにはできない。となると、各地の名漆器、陶磁器などから祝い膳にふさわしいものを揃えなければ。もしも粗相があれば、日本国の面目は丸つぶれ。もしかしたら百川の主人の首も無事ではないやもしれない……。

 そんなものすごい重圧の、とてつもない難業を、百川茂左衛門はやり遂げた。

 その饗応料理の内容が、「二月十日横浜応接場米人饗応献立書」という史料に残っている。料理名を全て列挙していると長くなってしまうので、主だった品名をピックアップすると、「吸物 花子巻鯛(はなこまきだい)、篠大こん、新粉山升」、「うま煮(ぶた煮一本)丼」、「茶碗 鴨大身、竹の子、茗荷竹」、「差身 平目生作り、かじめ大作、鯛小川巻、若しそ、生海苔、花わさび」、「香物 奈良漬瓜、味噌漬蕪、篠巻菜、はな塩、房山枡」、「台引 大蒲鉾(かまぼこ)」、デザートには粕庭羅(カステラ)も出されたという。

「豚」で饗応したのはアメリカ人の嗜好に寄せたのかもしれない。しかし、基本は魚介類の刺身と吸物、煮物、焼物だった。

 さて、この饗応、アメリカ人にとってどう映ったのか気になる。給仕役を務めた日本側の役人が記録しているところによると、「彼らは甘たるく重い味のものを好み、淡白なものは嫌ったようで、士官たちは刺身には手をつけなかった」という。味に関しては、物足りなさを感じたようだ。また、日本側はペリー一行に箸の使い方を教えたが、うまく使えずにフォークを使用していたとのこと。

 味は口に合わなかったものの、「おもてなし」の気持ちは伝わったようだ。ペリー一行は日本人の文化の高さを感じ、また自分たちに対する誠意を受け取ったことだろう。日本とアメリカの関係は、この「おもてなし」から一歩を歩み出すのだ。

 ちなみにこの料理、一人頭3両の費用がかかった。今の金額にして約30万円。500人分で1億5000万円の大饗応だった。

 この大仕事をやり遂げた「百川」。だがしかし、明治維新以降、忽然と姿を消してしまうという。「百川」に何があったのかは定かではないが、「ペリーの『おもてなし』をした」という事実は、多くの人に知ってもらいたい歴史の一場面だと思う。

文=雨野裾