海辺のラブホテルに辿り着いたシングルマザーと訳ありの老オーナー。生命の「罪と罰」を描き出す衝撃作

文芸・カルチャー

2017/4/21

『血と肉』(中山咲/河出書房新社)

生きることは血を流し、血を流させることである。それが頭では分かっていても、男性は実感することはできない。それゆえ、女性作家が「命」についての物語を紡ぐときこそ、読者の心を抉る生々しさを閉じ込めることができるのではないだろうか。

10代でデビューを果たし、注目の若手作家となった中山咲。彼女の最新作が『血と肉』(河出書房新社)である。のどかな海辺の田舎町を舞台としながら、徐々に熱を帯びていく「命」の物語に読者は戦慄するに違いない。

主人公、光海(みつみ)は不倫の末に妊娠し、シングルマザーとなることを決意する。仕事を辞め、東京を去る直前、光海は相手の男の家庭に乗り込み、破滅させる。罪を抱えた彼女が辿り着いたのはラブホテルでのアルバイトだった。コート・ダジュールと名付けられたホテルのオーナーは頼子という年配の女性。そして、従業員はみんな訳ありの女性ばかり。しかし、支え合っているというわけではなく、互いに距離を置きながら毎日は過ぎていく。そして、光海は出産予定日を迎えようとしていた。

タイトルにもある通り、本作で重要なモチーフとなっているのは「血」と「肉」である。敬虔なクリスチャンで菜食主義者という母親に育てられた光海は、幼い頃から肉を口にすることは罪だと教え込まれて生きてきた。食事制限は保育園にも伝えられており、光海は給食さえろくに食べられない幼少時代を過ごしていく。保育園で孤立し、泣きついてきた光海に母親は残酷にも思える仕打ちをする。生きることそのものが辛いのだと説き、光海の指先に針を突き刺したのだ。流れる血、光海に走る痛み、それを確認してから母親は持論を述べる。

それがきっと、生きてるってことだわ。それから罰っていうこと。

中学三年生のとき母親が死ぬと、光海は反動から積極的に肉を口にし始める。何物かの命を奪い、体内に取り入れる行為を肯定するようになったのだ。遅れてやって来た無邪気な少女時代を謳歌し、光海は母親から教え込まれた罪と罰の概念から解放されたように思う。不倫相手の子供を身ごもるまでは。

静かに暮らせるはずだったコート・ダジュールでの日々も、徐々に光海の心をざわつかせていく。頼子は光海の母親と同じくクリスチャンで、定期的に勉強会を開催するほど熱心な信者だった。「わたしたちはすべて罪人です」と聖書の教えに従って説く頼子に、光海は母親の姿を重ねずにはいられない。

頼子は頑なにコート・ダジュールがラブホテルと呼ばれることに抵抗を示す。そこには彼女のプライドや建物への思い入れが反映されているのだろうが、同時に男女の営みを拒絶しているようにも映る。まるで、生命を育むことが罪だとでも言うように。やがて、頼子の隠された過去が明かされるとき、本作は驚愕の展開を迎えることになる。

中山が描き出そうとするのは、女性たちが織り成す生と死の連鎖である。光海の母親や頼子が言うように、この世は罪にあふれ、人間は罰を受けながら生きているのかもしれない。ならば、そんな不浄の世界に新しい生命を産みおとそうとする女性とは何なのだろう? この連鎖には何の意味があるのだろう? 答えのない謎をつきつけられた女性たちは、苦悩しながらも与えられた生命を慈しまずにはいられない。彼女たちの「母性」にこそ生命の根源があると、本作は怒涛のクライマックスで見事に証明している。

本作を「ドロドロした展開」「女同士の怖さ」といった陳腐な語彙で形容することは簡単である。しかし、何よりも重要なのはこの物語から浮かび上がってくるのが「女性の強さ」だということだ。コート・ダジュールに宿泊した石岡という写真家は、「なんとなく」従業員たちの裏の顔も察しながらもなお、「女の人はいいね」と言う。

「世界に子供を産みおとしてあげられる。僕は今度生まれるなら、絶対に女性がいいな」

文=石塚就一