平山夢明 「小説は現実で当事者となったときの一つの示唆」

更新日:2012/1/31

 はぐれ者、嫌われ者、ごくつぶし、ろくでなし、英雄──死を迎える様々な人間たち。さらに愛情や“からっぽ”といった「概念」も死を迎える。鬼才・平山夢明は、新刊『或るろくでなしの死』(角川書店)で、ありとあらゆるものが死にいく過程を描いた。

 「この連作短編集では、みんなが大事にする善なるものを踏みにじっていく者の精神を書きたかったんだよ」
 子どもの頃に与えられた物語では、善は必ず悪に勝利し、美しい精神は汚されず、永久に輝き続けることが約束されていた。だが、成長するにつれ、真善美が最後に勝つとは限らないと、否応なく気づかされるのがこの世の中だ。

 「それでもたいていの人は自分はまっとうな人間だと思っていて、それは実際にそうなんだろうけどさ。ただ、残虐な事件を起こしたり、鬼畜の所業を平気でする人間は特別な怪物で、自分たちとはなんにも共通点がないんですよ、というふうには、あんまり書きたくないんだよ。というよりも、俺にはそうは書けない。

 なんでかって言うと、そういう連中と同じ心理が、必ず自分の中にあるからなんだ。もし、ないっていう人間がそんなに多いのならば、今の日本は非常に幸せであるはずだろう? だけど、実際には社会に閉塞感が漂っているし、幸福感も薄い。明らかに、良くない状態にあるんじゃないかな。そう思わない?」

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 小説というフィクションを手がかりに、残酷さから逃げず、正面切って対峙する作業をすることは、現実で当事者になった場合に一つの示唆を与えるのでは、と平山さんは言う。

「俺はことさら残酷なことを書きたくて小説を書いているわけではないんだよ。本当に最悪なことはゆっくり来る。だけど、短編という圧縮された形態でそれを書くには、特異な状況を作って追い詰め方を先鋭化しないと、俺の望む深度には達しないんだ。そのためにグロテスクな描写をいれないといけない。とはいえ、意図してやった場合を除けば、グロテスクな行為をする人間を賛美するようなことは書いたことはないよ。『こんなことをやるのはおかしいんじゃないか』とか、『こんな目にあったら大変だ』というのが伝わるように書いているし、暴力を肯定することもしない。一つの寓意、アンチテーゼとして書いているんだよね」

(ダ・ヴィンチ2月号「平山夢明インタビュー」より)