NMB48・須藤凜々花の行動がまさに哲学者“カント的”だった!? 「死」は“無”なのか“永遠”か?

暮らし

更新日:2017/7/4

『明るく死ぬための哲学』(中島義道/文藝春秋)

 さて今回はいささか難解な哲学の本の紹介だ。その前に哲学と言えば、「アイドルだって、哲学する」(by秋元康)というキャッチフレーズでおなじみのNMB48のメンバー、りりぽんこと、須藤凜々花女史について触れておこう。

 6月17日の「第9回AKB48選抜総選挙」で結婚宣言をしたりりぽん。まさに自著タイトルにしてニーチェの言葉である、『人生を危険にさらせ』(幻冬舎)を地で行く哲学者ぶりを発揮する。21日の記者会見では、「自分の口で絶対に言いたくて。あの場で言うのは凄く悩んだが、ファンには自分の口で伝えたかった」(6月22日、ハフポスト日本版)と話した。

 つまり何はさておき、自分がすべきは「真実」を真摯に伝えること──そう、りりぽんは判断したのだ。その結果、どんな非難の渦中にその身を置くことになろうとも。

advertisement

 このりりぽんの生きざまが、まさしく哲学者のイマヌエル・カント(1724年─1804年)的であることを教えてくれるのが、『明るく死ぬための哲学』(中島義道/文藝春秋)だ。

 カント研究の第一人者である著者が、20歳より古希(70歳)の今に至るまで、傾倒するきっかけになったと本書で明かすカントの道徳観はこうだ。

それは、この人生において「幸福を求めてはならない」ということである。正確に言い直せば、「幸福を第一に求めてはならない」ということ、幸福は常に「第二の地位になければならない」ということである。
(中略)
しかも、自分の幸福だけではない。カントは、他人の幸福も同じように第一に求めてはならないと言う。悩んでいる人、困窮している人が目の前にいても、彼(女)の幸福を第一に求めてはならない。なぜなら、そうすると往々にして真実を第一にしなくなる恐れがあるからである。
第一章 古希を迎えて より

 転じて、「保身(幸福)のために真実を隠してはいけない」と、保身行為の溢れかえる世をチクリと風刺する著者。その意味において、りりぽんのとった行動は、カント的道徳観からみれば、じつに「あっぱれ」といえるものなのかもしれない。

 さて、本題に戻ると、本書はマスコミより「戦う哲学者」との異名を授かる中島義道氏のこれまでの人生をテーマにしたエッセイ(第一章)と、本格的な哲学的考察パート(第二章~第四章)で構成され、本書を一貫するキーワードが、「私はどうせ死ぬ」という著者が幼少期から対峙してきた強迫観念、そして「カントの教え」である。

自分がやがて「死ぬ」のであったら、人生何をしても虚しいし、幸福になることなど絶対にありえないと確信してきた。その後の六〇年にわたる人生において、この確信が揺らいだことは一度たりともない。第一章より

 こう記す著者は「第二章 世界は存在しない」では、自分の死後にも続くような「客観的世界」と、過去や未来などの直線的時間の存在を破壊する論を展開させ、「自分の死後には何も存在しなくなる」という境地を導き、死の恐ろしさを半減させようとする。

 そして「第三章 不在としての私」では、カント、ニーチェ、デカルト、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、サルトル、ヒュームなどを引きながら、「私」もまた仮象の存在であることを説くのである。そして最終の「第四章 私が死ぬということ」ではいよいよ、著者が現在、死の問題にどう向き合っているのか、その心境が明かされている。

 本書は著者もあとがきで記すように、第二章以降の内容は難解であり、哲学に疎い人は時間をかけてじっくりと読む必要があるだろう。著者がかけてきた50年の歳月が凝縮された一冊なのだから、それも当然だ。

 そして最後に著者が記す言葉、そこには「虚無」を見据え続けてようやく見え始めた、一筋の希望が語られている。それは誰もが死と向き合う中で、耳を傾けてみるべき賢者の言葉なのだ。

文=町田光