犯罪被害者の近親者に現われる「深刻な症状」。とある襲撃事件被害者の妻が綴ったノンフィクション

暮らし

公開日:2023/4/6

跳ね返りとトラウマ
跳ね返りとトラウマ』(カミーユ・エマニュエル:著、吉田良子:訳/柏書房)

“そばにいるあなたも無傷ではない”

 カミーユ・エマニュエル氏によるノンフィクション作品『跳ね返りとトラウマ』(吉田良子:訳/柏書房)の帯を見た瞬間、“読まなければ”と思った。

 私は、生育環境や巻き込まれた犯罪被害の影響で、いくつかのトラウマを抱えている。私がトラウマに振り回されるたび、共に暮らすパートナーの日常も大きく揺らぐ。そのことに対して申し訳なさを感じながらも、対策がわからぬまま時間だけが過ぎていった。本書を読むことが、自分とパートナーにとって助けになるかもしれない。半ば祈るような気持ちで、緊張を携えつつ白い頁をめくった。

 本書は、パリで起きたシャルリ・エブド襲撃事件の生き残りである夫の妻で、ジャーナリストを生業とする著者が綴った、事件後5年間の記録である。襲撃事件があった当日、著者の夫は、たまたま遅刻をしたことで命の危機を免れた。しかし、オフィスから出てきたテロリストが空砲を放つ場面や、血まみれの仲間たちの姿を目撃したことにより、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する。

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 夫を支えねばならない。そうするのが当然で、支える側は強くあらねば。事件後、著者はずっとそう思っていた。しかし、トラウマは跳ね返り、周囲の人間をも深く傷つけるものであると確信したため、本書の執筆を決意した。

 本書の序盤に、こんな一節がある。

“支える、慰める、聴く、答える、予測する、整える、せきとめる、危険を引きつけて周囲を守る、さらに答える、パートナーを安心させる、気を配る、そこにいる、しっかりする、くじけない、強くなる、……”

 この一節は、まだまだ続く。引用した箇所は、およそ半分に過ぎない。トラウマを抱える人間と、暮らしを共にする。その苦労の大半は、往々にして冒頭の「支える」に集約される。しかし、現実はそう単純なものではない。本書で著者が描く、PTSDを患う夫との不安定な日常の描写を読めば、そのことがよくわかる。

 トラウマが引き起こす発作(フラッシュバックやパニックに基づく行動など)は、いつ何時起こるかわからない。何がトリガーになるかもわからない。たまたま観た映画のワンシーン、外から聞こえるサイレンの音、不用意な人の言葉。支える側がどれほど細心の注意を払おうとも、外部からの思わぬ刺激で、トラウマは暴れ出す。そのたび、隣にいる人にも痛みが跳ね返る。容赦なく、何度でも。

 著者の夫は、事件当日は難を逃れたものの、その後もテロリストに狙われるおそれがあった。そのため、5年間で8回もの引っ越しを余儀なくされた。著者は、多くの仕事を失い、親しい人たちと物理的に離され、孤独な環境下で出産・子育てを経験している。それがどれほど過酷な日々であるかは、想像に難くないだろう。

 本書によると、最新版のDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)‐5では、“事件を直接体験した人と、跳ね返りによってそれを体験した近親者を同等に扱うべきだ”としている。だが、跳ね返りの痛みを「被害」として扱う必要性は、まだまだ浸透していないように思う。

 私のパートナーは、私に対して滅多に弱音を吐かない。しかし、彼は当然ながら「無傷ではない」。また、私が保身のために、彼の痛みを無意識に矮小化していたことは否めない。「トラウマを抱えて生きる者」と、「その隣で生きる者」。後者の痛みがどれほど深刻なものか、本書を通して明確に理解できた。

 誤解のないよう言い添えるが、トラウマを抱える本人に落ち度はない。望んで被害者になった者など、誰一人としていないのだから。ただ、それと同様に、「跳ね返り」の痛みを受ける側にも、一切落ち度はないのだ。

 人間一人を傷つける行為は、被害当事者にとどまらず多くの被害者を生む。そのことを、多くの大人が肝に銘じる必要がある。

 パートナーも、私に続き本書を読む決意をした。彼にとって、本書は穏やかに効く良薬となるだろう。“共に生きる”と決めた私たちは、互いに手を取り合い、最善の道を探し、知識と優しさに助けられ、毎日を生きている。

文=碧月はる

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