両親に捨てられ、叔父から性暴力を受けた6歳の女の子ーー破壊行動で自分を守っていた彼女から、愛とずば抜けた知能を見出した先生の話

文芸・カルチャー

更新日:2023/6/7

シーラという子
シーラという子』(トリイ・L・ヘイデン:著、入江真佐子:訳/早川書房)

“誰もあたしを痛めつけることはできないんだよ。あたしが泣かなければ、あたしが痛がってることはわからないでしょ。だからあたしを痛めつけることにはならないんだよ。”

 これを言ったのは、6歳の女の子である。名前はシーラ。「あたし、ぜったい泣かないんだ」の言葉に続き、彼女はこの台詞を放った。6歳と言えば、小学校1年生、もしくは幼稚園の年長の年にあたる。そんな年端もいかない子どもが、なぜこんな考えに行き着いたのか。答えは、トリイ・L・ヘイデン氏が綴るノンフィクション作品、『シーラという子』(入江真佐子:訳/早川書房)の中にあった。

 情緒障害児教室の教員であるトリイとシーラとの交流を描いた本書は、センセーショナルな内容だったことも相まって、世界的に大きな反響を呼び起こした。

 シーラがトリイの教室に来たのは、彼女がとある傷害事件を起こしたことがきっかけだった。シーラは精神病院に入るはずだったが、州立病院に空きがなく、一時的にトリイの教室に通うこととなる。

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 トリイはもともと、あらゆる障害児教室から見放された子どもたちを8人も受け持っていた。そのため、この決定はトリイのみならず、トリイのクラスの子どもたちにも大きな混乱を招いた。シーラは、ありとあらゆることを拒否した。しゃべること、書くこと、教室にとどまること。何かをやらせようとするたび、怒り狂ったシーラは大声で叫び、暴力的な行為に及ぶ。それでいて、嵐が過ぎ去った途端、こう聞くのだ。

“「あたしを、ぶつ?」”

 トリイは、そのたびにこう答える。

“「いいえ。私は子供をぶつようなことはしないわ」”

 ここでは、誰もあなたを傷つけない。子どもを傷つける人はいない。私たちを怖がらなくていい。事あるごとに、トリイはシーラにそう言い聞かせた。シーラの破壊行動は長らく続いたが、それでもトリイは忍耐強く彼女に接し続けた。そのうち、徐々にシーラの行動や発言に変化が生まれ、彼女の知能がずば抜けて高いことが明らかになる。

 人に限らず、どんな生き物にも言えることだが、傷つけられる機会が多ければ多いほど、強固な鎧をまとい、誰のことも信用しなくなる。「攻撃こそ最大の防御である」と学習する者も少なくない。シーラの生い立ちも、まさにそれに当たる。

 シーラは、季節労働者用のキャンプに住み、貧困と家庭内暴力に晒される日々を送っていた。シーラの母親は、シーラを捨てた。シーラの父は、彼女を「自分の子どもではない」と疎んでいた。何よりも心を抉られたのは、シーラの叔父・ジェリーが行った非道な行為であった。

『シーラという子』の続編である『タイガーと呼ばれた子』(早川書房)で、叔父から受けた暴力について、シーラはこのように告白している。

“あたし、子供が産めないんだよ。知ってた?叔父さんにあんなことをされたおかげでね。”

「虐げられていい」存在など、本来この世にいない。誰しも、保護され、育まれ、愛される権利がある。シーラからそれを剥奪したのは、周囲の大人たちだ。結果、彼女は猛獣にならざるを得なかった。それ以外に、身を守る術がなかったのだろう。

 人は時に、鬼のような残酷さで人を傷つける。だが同時に、人の傷を癒すのもまた人である。本書で描かれるトリイとシーラの絆の中に、かすかな希望を見た。それは、目を凝らさねば見失ってしまうほど、小さな小さな光だった。それでも、その光があったからこそ、シーラは命をつないでこられたのだと思う。

 たとえ他人だとしても、本気で想ってくれる人が一人でもいたのなら、その体験は生きる糧となる。親が与えてくれなかった愛情を、他人からもらう。それを「寂しいこと」だと言う人もいるが、私はそうは思わない。血縁だろうと他人だろうと、相手に対する想いの深さが最終的には物を言う。

 トリイは、シーラを愛した。シーラも、トリイを愛した。それがすべてで、真実だ。ただ、その裏側にある背景を忘れたくない。救いの手があったとしても、「よかったね」などとは決して言えない残酷な事実。冒頭で紹介した台詞を、6歳のシーラが口にした理由。そこに、「決して繰り返してはいけない痛みの根源」がある。子どもに、こんな台詞を言わせてはいけない。大人でさえ目を背けたくなる体験を、幼子に背負わせるなんて、あってはならないことだ。本書を綴ったトリイの覚悟と共に、シーラの言葉が広く伝わってほしい。どれほど痛くとも、そこからしか知り得ない“現実”があると、私は思う。

文=碧月はる

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