いじめ、引きこもり、虐待。孤独死の現場を取材するノンフィクション作家の半生と、社会課題の根源に迫る著者初のエッセイ『生きづらさ時代』

文芸・カルチャー

更新日:2023/8/9

生きづらさ時代
生きづらさ時代』(菅野久美子/双葉社)

 凄惨な事件の報道、止まらない物価高、SNSに集約される人間関係、若年層にも広がる孤独死。周囲にあふれる社会課題をはじめ、さまざまな要因から「生きづらさ」を抱える人が増えている。菅野久美子氏による初のエッセイ『生きづらさ時代』(双葉社)は、そんな現代を生きるすべての人に、「透明化」された痛みの根源を伝え、同時に希望をも届けてくれる。

 ノンフィクション作家として孤独死現場の取材を8年以上も続けてきた著者は、社会から取りこぼされた人々の「生きづらさ」の痕跡を目の当たりにしてきた。孤独死が起こった部屋の特殊清掃の現場は、言わずもがな過酷である。孤独死の多くは夏場に起きることから、耐え難い暑さに加え、腐敗した体液とごみの臭い、大量の虫が室内に充満する。著者はなぜ、このような過酷な現場に足を踏み入れることができるのか。それは、著者自身が社会に対する生きづらさを抱える当事者であるがゆえだった。

“誰かの生きづらさの痕跡が、私のこととして迫りくる。長年の現場取材でわかったのは、生きづらさは個人的な問題のように見えて、放射状に様々な社会問題と繋がっているということだ。”

 孤独死した人の痕跡の中に、自分の面影を見る。そんな著者の言葉は、厳しい現実を伝えながらも温かさに満ちている。他者の痛みを「他人事」として切り捨てず、「これは未来の自分の姿かもしれない」と想像する。その思いを原動力として取材を続けてきた著者は、本書において自身の生きづらさと正面から向き合う。

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 著者は、幼少期にいじめに遭い、不登校によるひきこもりを経験している。また、虐待サバイバーでもある。母親から長年にわたり虐待を受け、心身共に数えきれないほどの痛みを背負ってきた。

“「あんたがいなければ仕事ができた。今からだって、あんたを川に流すことだってできるんだからね」”

 子どもは、親に愛してほしい生き物だ。それは人として当然の感情であり、生物本能でもある。そんな子どもにとって、母親から言われる「あんたがいなければ」の言葉がどれほど心を抉られるものか、想像に難くない。

 母親から受けた虐待やいじめのトラウマは、著者の自己肯定感を著しく損なった。そのため、あらゆる場面で自分を肯定できず、小さな願望を叶えることにさえ足踏みをしてしまう。印象的だったのは、雑貨屋で見つけたティースプーンに一目惚れをするエピソードだ。金色の小ぶりなティースプーン。その可愛さに、著者は釘付けになってしまう。値段は500円。決して買えない値段ではない。それなのに、そのスプーンを買えなかった。こんな可愛いものは、自分には似合わない。そう思い、悲しい気持ちで店を後にした。

 著者の母は、著者の髪型や服装を勝手に決めた。ふわふわのロングヘアやスカートが好きだったが、母はその真逆を強いた。髪型はショートカット、服はサイズの大きなメンズ服。娘がおしゃれをしようとすれば「色気づくな」と貶め、自分が望む方向へと娘の生き方を強制した。そのため、著者は自分が「可愛い」と感じたものを買うことにさえ抵抗を感じるようになったのである。

 結果的に、著者はこのティースプーンを購入した。だが、そこには多くの葛藤や逡巡があった。好きなものを自分の意志で買う。それだけのことにハードルを感じる生きづらさを、身をもって知っている。私自身、複雑な生い立ちの影響で、40歳を過ぎた今も自分のためにお金を使うことに抵抗を感じてしまう。だから、著者がスプーンを買えたことが、自分のことのように嬉しかった。

 本書は、著者自身の人生をなぞりながら、さまざまな社会課題に言及している。パワハラ、セクハラ、過重労働、貧困、就職氷河期時代など、逃れられない苦悩を味わった人々の叫びは、決して他人事ではない。喪失や挫折は、時に人の心を容易にへし折る。

“誰もが勝ち続ける人生を送れるわけではない、と言いたい。”

 著者のこの言葉の意味を、真剣に考えたい。社会課題を個人の問題にすり替え、他者の痛みを矮小化する。その先で待ち受けている未来は、本当に正しい方向を向いているだろうか。

 本書は、生きづらさを抱えながらも回復への道のりを歩みはじめた人々の姿から、希望を見出だせる一冊でもある。著者自身、多くの苦難を抱えながら今日まで生きてきた。それでも、人の持つ可能性や優しさを信じたいと願い、深い祈りを込めて本書を綴った著者の心持ちこそが、私には“光”だと感じた。

文=碧月はる

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