関東大震災から100年の節目に振り返る。首都・東京の壊滅的な被害の裏にあった“幻の首都移転案”、そして復興を後押しした企業たち

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公開日:2023/9/7

民間企業からの震災復興
民間企業からの震災復興 ――関東大震災を経済視点で読みなおす』(木村昌人/筑摩書房)

 1923年9月1日。関東大震災の発生から、今年で100年が経過した。発生当時、マグニチュード7.9の大地震で関東の一府六県(東京府、神奈川県、千葉県、埼玉県東部、茨城県東南部、山梨県東部、静岡県東部と伊豆半島)は甚大な被害を受け、一瞬で首都機能が壊滅するほどだったという。

 書籍『民間企業からの震災復興 ――関東大震災を経済視点で読みなおす』(木村昌人/筑摩書房)は、関東大震災発生後の復興過程をたどる一冊だ。当時、日本の経済活動を担う実業家・企業・財界など、未曾有の災害から復興に乗り出した人々の歩みは、非常に興味深い。

幻となった首都・東京の“遷都”案

 当時から変わらず、今なお日本の首都は東京だ。現代では、再びの関東大震災や南海トラフ地震の発生が不安視されており、天災が発生したときに首都機能は“どうなるのか”と懸念する声もある。

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 関東大震災の発生当時、東京を中心に日本は混乱の渦中にあった。発生直前の1923年8月24日には加藤友三郎首相が逝去していたが、発生時点では新内閣が誕生しておらず、発生後に緊急で続く山本権兵衛内閣を発足。戒厳令が敷かれ、復興予算などを含む「大震災のための四原則」を発表した。

 そのさなかで遷都、すなわち“首都を移転する”案が実際に浮かんでいたとは驚く。先述の四原則には遷都は行わないと明記されていたが、かつて大地震や火山の噴火による被害をたびたび受けていた東京の首都防衛の視点から陸軍中枢部は、遷都を検討。「朝鮮半島の京城(現在のソウル)の南の竜山」「兵庫県加古川」「(東京の)八王子付近」が候補に挙がった。

 ただ、結果としてこの案が白紙になったのはいうまでもない。地震発生から数日後、政府の起草を受けて、大正天皇が「東京は依然として国の都の地位を失わない」と詔書を発し、以降、「遷都を口にするのはおそれ多い」とする空気ができあがっていったという。

関東大震災を転機に大きくなった老舗メーカー

 関東大震災は、民間企業の経済活動にも影響を与えた。地震発生後、交通インフラである鉄道や市電が打撃を受ける一方で光が当たったのは、自動車だった。

 東京の帝都復興を掲げた当時、運送の要として自動車に付随する様々な部品や、修理需要が高まった。そのビジネスチャンスをつかんだのは、大企業ではなく中小零細企業だったという。

 大企業と異なり、中小零細企業は小回りが利く。チャンスを逃すまいとした起業家精神にあふれる中小零細の企業家たちは、震災で倒壊した設備を一新し、復興により生まれた需要に対応していった。

 また、他の分野でもチャンスをつかんだ企業もある。本書によれば、大手化粧品メーカーの「資生堂」は当時、衛生面から石鹸の需要が高まるなか、混乱のさなかで便乗値上げをせず被災者に石鹸を配布したことで、会社への信用を高めた。

 大手食品メーカーの「ニチロ(現・マルハニチロ)」も例に挙げられた一社で、当時すでに製造していた缶詰を配布したことから、その保存力を高く評価されて、業績を拡大していったのだという。

 関東大震災を経済活動から振り返ると、当時の日本全体における「経済地図を塗り替えるほどのもう一つの近現代史が生まれる可能性」が見えてくる。未曾有の災害から100年の節目、当時の人々の歩みをたどることには大きな意味がある。

文=カネコシュウヘイ

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