仕事と人間関係で消耗しきった25歳女性が、人生を総決算して向かう先は? SNSで話題になったコミック『この世は戦う価値がある』

マンガ

公開日:2023/11/9

この世は戦う価値がある
この世は戦う価値がある』(こだまはつみ/小学館)

 仕事もプライベートもハードすぎて息つく暇もない。もはや人生が限界……そんな大人にぜひ読んでほしいマンガがある。

この世は戦う価値がある』(こだまはつみ/小学館)は、主人公の伊東紀理(いとうきり)が、あるきっかけで開き直り、やりたいことをやっていく物語だ。

 まず紀理は辛いしがらみから抜け出すことに成功する。痛快で、カタルシスを感じることができ、それだけでも読んでいて気持ちがアガるのだが、本作はさらにその先の彼女をじっくりと描いていく。筆者はそれがリアルで生々しいため目が離せなくなっている。

 X(旧Twitter)で2万RTと10万いいね、そして2150万ビューを獲得した話題作を紹介していく。

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人生の総決算、始めます。「貸し」を取り返し思うがままに生きる話

 伊東紀理はとある企業で働く25歳。性格はおとなしく、周囲に言われるがままであった。職場ではパワハラとセクハラを受けて、仕事は終電でも終わらない量をガッツリ積まれる、さらにプライベートでも金と体目当てのモラハラ彼氏に好き放題されており、もはや“限界が役満”になっていた。

 そんな彼女が急に出社しなくなった。数日の無断欠勤後、突然「退職する」と言いつつ派手な髪色にして別人のようになって職場に現れた。見た目だけではない、おどおどして、言い返したりしなかった彼女は超強気。その口から放たれる正論と毒舌の嵐に、圧倒される職場の上司たち。彼女は最後、こう言い放って去っていく。

さよなら
掃き溜めの皆さん。

 いったい彼女に何があったのか。

 紀理は過去の経験から“人の役に立てない”ことを怖がっていた。仕事仲間にも恋人に役立たずと思われたくなくて言われるがまま、がんばっていたのだ。ただそのプレッシャーによって体に変調をきたすまでになる。「もう生きることをあきらめよう」彼女はそう考えて身辺を整理し始めたところに家に届いていた一通の封書に気づく。それは臓器提供への意志登録カードだった。

 このカードが紀理を解き放つ。それは彼女が死んだあと、11人もの人生を救える約束手形だ。使えそうなものを他人に渡せば確実に“役に立つ”。まさに本望だ。彼女はそれなら今は「自由に生きてもいいのだ」と解釈する。

 そうと決めたら紀理は自分の「貸し」と「借り」を棚卸しして、人生を決算することにした。「貸し」とは我慢してきたこと、できなかったこと。「借り」は返せていなかったものを元の場所に戻すことだ。それらを書き出したメモ、いわば人生の決算リストをひとつひとつチェックし、紀理は思うがままに行動していく。

 職場に別れを告げ、次に向かったのは彼氏のもと。彼女はクールに暴れて貸した金を回収、文字通り清算した。繰り返すがまるで別人だ。実は紀理はこの時点で大きな「貸し」を取り戻していた。そして彼女が次にやることとは――。

伊東紀理という面白いが危うい女

 一気に読み、バトルマンガでもないのに興奮し、体温が上がるような感覚になった。ただ本作は、職場と彼氏に逆襲してスカッとして終わりではない。

 印象的なシーンがある。紀理は決算リストに書き出した「昼酒」を決行、昼の公園でビールを飲む。世間体はともかく、売っているものを買い、一人で楽しんだだけだ。それなのに彼女は罪悪感をぬぐえず、飲みながら泣いてしまうのだった。決算リストの項目は確かに自由だ。しかし「やってみた! 最高!」とは限らないということなのか。紀理は、決して型破りなヒロインではなく、私たちと感覚が遠くない。だからこそ共感できるし、目が離せなくなる。

 やれなかったことをやってみる紀理、これによって私たちは彼女を知っていく。彼女もまた、自分を思い出していく。1巻を読み終えてわかるのは、彼女は人が変わったのではないということだ。

 ただ、紀理を突き動かしているのは「いつか自分の一部が人の役に立つ」という希望であって「自分が幸せになること」ではない、というのは少しもやもやする。彼女の表情は、自由を謳歌して楽しい人のそれではないようにみえるのだ。

 決算リストを全て消化したそのとき「人生に価値があったのかを確かめたい」という彼女。そもそも25歳ならまだまだ自由だし、どうとでもやり直せるし、何にでもなれるのだと中高年として言いたくなる。願わくは「あの世にいったら役に立つ」ではなく、「この世は戦ってまで生きる価値があるのだ」と気づいてほしい。

 伊東紀理は格好いい。ただ危ういところもある。本作を読めば、あなたもきっと彼女から目が離せなくなるはずだ。

文=古林恭

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