大沢たかお×松嶋菜々子でドラマ化された『深夜特急』の著者・初の国内旅エッセイ。予定にはない自由気ままな選択がもたらす幸福

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/8

旅のつばくろ
旅のつばくろ』(沢木耕太郎/新潮社)

 80年代と90年代の日本における個人旅行の流行の一翼を担った紀行小説といえば、『深夜特急』(沢木耕太郎/新潮社)だ。私も20代半ばにこの本に出会い、バックパックを背負って東南アジアを旅した。寝台列車に揺られてマレー半島を南下したことは今も忘れない。

 若くて、お金はないけれど、時間だけはたっぷりあったあの頃。埃っぽい道端のカフェに腰をおろしてぼんやりと通り過ぎていく人々を眺めたり、安宿で言葉を交わした人に「どこそこはよかった」と聞けばふらりと出かけてみたりした。

 それから約20年が経ったいま、私はフリーライターとして国内外のあちこちを取材している。政府観光局や自治体などが主催するプレスツアーに参加し、観光地や宿泊施設をまわることも少なくない。好きな旅を仕事にできているのは幸運なことであるが、「記事化する」という目的があるので、「自由に、気ままに」というわけにはいかない。

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 取材で行く旅はインプットが多く刺激的だが、心より頭が先に動いてしまう感覚がある。その反動なのか、“撮れ高”を気にすることなく、行きたいところに行き、立ち止まりたいところで立ち止まり、食べたいものを食べる旅がしたくなり、先日一人で熊本へ行ってきた。

飛行機の窓から見えた阿蘇山
飛行機の窓から見えた阿蘇山

 その熊本一人旅に携えていった文庫本が、『旅のつばくろ』(沢木耕太郎/新潮社)だ。異国のイメージが強い沢木耕太郎氏の、初の国内旅エッセイである。つばくろ(燕)とは、つばくらめから転じたもので、つばめの意味だ。旅も、人生も、つばめのように軽やかに。そんな思いを込めたタイトルだろう。

 遊佐、月舘、盛岡、箱根、竜飛岬、金沢、函館、小樽……。本書には、沢木氏が日本のあちこちで目にしたものや出会った人にまつわる短いエッセイが多数収められている。印象的なのは、得難い体験は多くの場合、予定にない思い付きの選択をした結果だということ。

 もし、あの列車であの老婦人が私と向かい合わせの席に座らなかったら、そして、私がたまたま広げたパンフレットの表紙を眼にしなかったら、あえて見知らぬ私に声を掛けようなどとは思わなかっただろう。ただ、午前中に見た紅葉への感動が、私にも見させてあげたいという思いに結びついた。

そして、私はといえば、その老婦人の勧めに素直に従ったおかげでとんでもない「ご褒美」を貰った。これもまた偶然というものに柔らかく反応することのできた私への、旅の神様からのプレゼントだったのかもしれない。
p.152~153より引用

 忙しい人ほど旅先での限られた時間を無駄にしたくないと考え、念入りに下調べをするのではないだろうか。絶景スポットやおいしいレストラン、おしゃれなカフェの情報はSNSでいくらでも手に入る。「この時間にここへ行けばこんな体験ができるだろう」とわかった上で行けば、がっかりすることも少ない。

 しかし本書には、知らない街を歩きまわり、自分の直感や経験を総動員し、時には偶然の出会いなどに助けられて一軒の店を発見するような旅の仕方は、失敗することもあるが、思いもよらない成功が待っていることもある、と書かれている。

 人生において、たとえば就職や結婚といった大事に失敗したくないというのはわかる。
 だが、国内における短期の旅などというのは、ささやかな失敗をしても容易に回復できる数少ない機会であるだろう。
 私がもったいないと思うのは、失敗が許される機会に、失敗をする経験を逃してしまうことなのだ。
 人は、失敗することで、大切な何かを学ぶことができる。失敗に慣れておくこともできるし、失敗した後にどう気持を立て直すかの術を体得できたりもする。
 可能なかぎりネットに頼らず、自分の五感を研ぎ澄ませ、次の行動を選択する。
 ただそれだけで、小さな旅もスリリングなものになり、結果として豊かで深いものになるはずなのだ。
P.212~213より引用

 事前にあれこれ決めない旅は、どこまでも自由で伸びやかだ。私たちは、放っておくとすぐ心ではなく頭で考えようとしてしまうけれど、もっと余白を持って旅をしてもいい。

 本書のタイトルにもある「つばくろ」は春の季語だそうだ。軽やかに飛び立つ春は、もうそこまで来ている。

文=ayan

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