芥川賞候補作『Blue』があぶり出す“きれいごとの多様性”。トランスジェンダーの「SNSでの叫び」が写す社会の断面

文芸・カルチャー

PR公開日:2024/3/8

Blue
Blue』(川野芽生/集英社)

「多様性の時代」と言われる現在。制服のスタイルを性別で規定しない学校がでてきたり、「誰でもトイレ」が増えてきたり、以前の社会よりはるかに「ジェンダー」を意識するきっかけが社会の中で増えてきた。さらには「トランスジェンダー(性自認と生まれた時に割り当てられた性別が一致していない人)」という言葉もより一般的になり、社会は確かに変化に向けて動きつつある。第170回 芥川賞候補作となった川野芽生さんの『Blue』(集英社)は、そんな揺れ動く社会を問い、マイノリティの葛藤を鮮やかに切り取ってみせる、痛ましく青い物語だ。

 舞台は数年前に共学化した元女子高。演劇部では高校の文化祭で『人魚姫』を翻案したオリジナル作品を上演することになっていた。本来は人魚姫と王子の悲恋だった物語は「王女と人魚姫」の物語に形を変え、部長の宇内、脚本担当の滝上、王女・マルグレーテ役の水無瀬、そして人魚姫のミア役の真砂 (まさご)は、物語の解釈をめぐって様々な議論を交わしつつ劇を作り上げていく。舞台は大成功。そして数年後、大学生になった当時の部員たちに『人魚姫』再演の話が舞い込む。当時を懐かしみながら仲間たちは母校に向かうが、真砂は「主演は他をあたって」と固辞するのだった……。

 真砂は演劇部で女性を演じたことがきっかけで社会的な抑圧から解放され、割りあてられた性別の「男」ではなく「女」として生きているトランスジェンダー。真砂ほどの確たるジェンダーアイデンテティが示されるわけではないが、演劇部のメンバーはいずれも少しずつ揺らぎを抱えていて(「女」の自分がいまいちしっくりこない部長の宇内の一人称は「俺」、脚本の滝上も一人称は「僕」だ)、いずれの登場人物の口調もいわゆる「女言葉」が使われないため、「誰がどの性別なのか」という読者が当たり前に捉えがちなジェンダーの特定も容易にさせてくれない。そんな彼らが語り合う疑問の数々――「ミアのマルグレーテに対する気持ちは恋なのか?」「人魚姫は自己犠牲じゃなく、外の世界に行きたかっただけの自由な女子なのでは?」など――は、どこか自分たちの「現在地点」を丁寧に確認するかの如く繊細で切実だ。

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 物語が大きく動くのは数年後、彼らが大学生になってから。高校卒業時点では「自分で選択した」生き方を貫こうとしていた仲間たちは、それぞれが生きる場所で少しずつ現実と折り合いをつけて生きていた。語られるのは、強固な社会規範や偏見に翻弄され、不安定な未来しか描けない「選択肢などない」現実。まだまだ変わらない強固な社会の壁は青くて脆い魂を追い詰めるばかりで、物語に散りばめられる、SNSに吐き出した言葉たちは、どこにも行けない主人公の痛切な苦しみを切々と訴える。

「多様性」と言葉に出すのは簡単だが、まだまだ「きれいごと」でしかないのが現実なのかもしれない。この物語の描き出す悲しみは、おそらくリアルに繰り返されていること。そうしたどうにもならない痛みが、私たちの無自覚な意識に鋭く深く、突き刺さる物語だ。

(文=荒井理恵)

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