一見、平凡な人生にも哀切があり、秘密があり、波乱がある。男女の心の襞を描いた珠玉の短編集

小説・エッセイ

2011/1/4

帽子

ハード : PC/iPhone/iPad 発売元 : 中央公論新社
ジャンル:小説・エッセイ 購入元:電子文庫パブリ
著者名:吉村昭 価格:486円

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2006年に膵臓癌でこの世を去った吉村昭は、私が敬愛する小説家の一人だ。

虚飾をそぎ落とした文章には、どこにもあざとさがなく、いぶし銀のように美しい。『ふぉん・しぃほるとの娘』、『アメリカ彦蔵』、『破獄』など、丹念に取材を重ね、奇をてらうことなく淡々とした筆致で、まるでノンフィクションのように描かれる歴史小説は、どれも丹誠込めた職人仕事のように味わい深い。

短編小説はこうした長編小説でこわばった筋肉をほぐすために、ストレッチのように描かれたものかもしれない。普通の人間の暮らしに潜む秘密や波立つ心の揺れが、精緻に描かれていて心に染みる。

表題作の「帽子」もしかり。

死期が迫る妻のために、専門店で次々と帽子を買い求める夫の姿を描いたものだが、その心情が哀切であるほどに、どこかグロテスクめいて見える。結婚生活の長い私は、離婚を決めた夫婦が最後の食事をする「朝食」に共感を覚えた。すでに心は冷えているが、長い年月を共に過ごした関係を清算するめんどくささと淡い未練が、最期の朝食のテーブルで交わされる短い会話に漂う。

全9篇、いずれももう決して若くない男女の日常に起こった出来事。一見平凡に見えるどの人生にも秘密があり、それなりに波乱に満ちているもんだ。iPhoneで一話を読み終えて目を上げたとき、前の座席に座るちょっとくたびれた中年の男女を見て、そんなことを思った。

いずれも切り口がおもしろい9編が収められている。同年代の中年男性の心情がかいま見えた気がして、「男ってこうなんだ」と、御年50歳を過ぎて私は開眼したのだった

表題の「帽子」の冒頭。店に並んだ帽子を「図鑑でみたクラゲのようみえることもあれば、美麗な色をした茸類の群のように感じられることもあった。」と描写する。淡々と書かれた表現ながら、死を間近にしてやせ衰えた「妻」の映像と重ねると、グロテスクを帯びてくる