東日本大震災を生き延びた子どもが2年半抱え続けた、母親にも語らなかった記憶とその思い

社会

2017/8/1

『透明な力を 災後の子どもたち』(河北新報社/東京書籍)

 阪神淡路大震災、東日本大震災、その他の災害も同様に、起こった当時は大々的に報じられる。被害状況、人々の様子がありありと映し出され、目にする者の心を引きつける。しかしそれから時間が経つにつれ、どんどん人々は関心を失っていく。被災地の人々は、今でも懸命に「いつもの日常」に戻るため、必死に生き続けている。本当に映し出すべきは、被災直後ではなく、被災から立ち直る人々の現在の姿ではないだろうか。

 『透明な力を 災後の子どもたち』(河北新報社/東京書籍)は、東日本大震災を生き延びた子どもたちの、災後の歳月を追ったものだ。震災の傷跡は深い。未だ消えるものではない。それでもあの日の恐怖を受け止め、必死に生きようとする彼らの姿がここに記されている。本書より、母親にも語ることなく2年半抱え続けた、ある子どもの記憶とその思いを紹介したい。

 鈴木翔真君はあの日、海岸から約1.5キロ離れた保育園で昼寝中だった。しかし突然の激しい揺れに跳び起きた。園庭に出ると、轟音と共に黒い波が迫ってくるのが見えた。逃げるため飛び乗った車に波が迫る。ところが反対方向からも波が押し寄せ、慌てて車から降りた。近くの民家に駆け込んだとき、翔真君の友達2人が間に合わずに流された。

 それから小学校に上がった翔真君。ふさぎ込むこともなく、以前と変わらないように見えた。しかし依然として、震災当日のことはあまり話したがらない。芯がむき出しになるほど鉛筆を噛むことがあれば、雷に怯え、「ぼく死ぬ」と怖がることもあった。どんな思いでいるのだろう……。母親は気になっても、深く聞くのはためらわれた。

 翔真君が震災のことを初めて文章にしたのは、小学3年生の6月。学校で取り組んだ「防災の手紙」がきっかけだった。翔真君ははじめ、「怖いから書かない」と嫌がった。担任の先生は「それでいいよ。書けるときに書けばいい」と見守った。手紙を次々と発表する同級生に触発されたのか、翔真君もついに「防災の手紙」を書いた。

〈あと50センチぐらいでつなみにのみこまれそうでした。ともだちがつなみでしんでしまったのでぼくのおかあさんとおとうさんがしんでると思ってぼくはないてしまいました〉

 2学期になり、心に残ったことを詩で表現する取り組みが始まると、進んで津波に触れるようになった。「心にふたをするのではなく、記憶を整理していく中で、辛い思い出を少しでも肯定的に変えられたら」。そう願った担任の先生は、あえて気持ちや事実を引き出した。無理をしていないか、表現や言動に気を配りながら、記憶を手繰り寄せて出来上がった作文がある。その一部を抜粋したい。

 あれから2年半がたちました。今でも東日本大震災がなかったら、死んだ人はいなかったと思います。でも、僕の心の中には、BちゃんとAちゃんの保育所の時の思い出が残っています。

 Bちゃん。いっしょに仮面ライダーごっこをしたね。Aちゃん。みんなでおにごっこをいっぱいしたね。Bちゃん、Aちゃん。天国でも仲良くしてね。3年しかいっしょに遊べなかったけど、二人にあえてよかったよ。ぼくは、二人のことをわすれないよ。いつまでも、いつまでも。

 この作文を書くまでの2年半、翔真君はどんな思いだったのだろうか。どれほどの恐怖と悲しみを小さな体で抱えていたのだろうか。翔真君に限らず、震災によって激変した日常を生き続けている子どもたちは数多くいる。彼らは今でも「いつもの日常」に戻るため、懸命に生き続けている。

文=いのうえゆきひろ