『自信過剰な私たち』――実は誰もが自信過剰だった!?

ライフスタイル

2017/11/17

『自信過剰な私たち 自分を知るための哲学』(中村隆文/ナカニシヤ出版)

 自信というものは、人が生きていく上では非常に大事なものだ。悩みの多くはこの自信の大小に左右されていると言っても良い。そして、この自信を失うような出来事――いわゆる挫折もまた多くの人が一度は経験しているだろう。だが――はたしてその挫折までに持っていた自信は、本当に“実力に見合った正当な自信”だったのか? そんな問いを投げかけてくるのが『自信過剰な私たち 自分を知るための哲学』(中村隆文/ナカニシヤ出版)である。

 自分を変える際、もっとも大きな障害のひとつが「自分は元々こういう人間だ」というあたかも最初から「こう」なることが決定されていたと思う意識だ。こういった意識が強いと「最初からこうなることは決まっているのだから努力するのは意味がない」といった結論にも至ってしまう。これでは変わることはできないだろう。しかし、本書曰く人間には予言破りの自由がある。過去にどのような要因があろうと、それによって未来が絶対的に決まることはない、ということだ。例えば、酷い事故に遭ったとしても、それ以降事故のトラウマに苦しむ人も居れば、そうでない人も居るだろう。これは、未来を決定づける要因が過去の出来事ではなく個人の中にあるということの証左である。自分を変える為に必要なこととして、本書では以下のようなことが述べられている。

「未来にはこうなりたい」という目標が今の自分を動かし、それによって今の自分が変わってゆけることこそ、単なる物体ではなく精神的存在としての人間なのであって、そこにこそ人間の自由意志と可能性がある、といえる。

「未来にはこうなりたい」という目標があり、その目標を目指すにあたって「自分にはその目標に到達できるだけの力がある」と思うことこそが自信なのである。もしも、現段階で「そんな力は自分にはない」というのであれば、それは目標を目指す前にそこに到達できるだけの力を身に着ける為の努力が必要となる。ここで本書の言う「人は誰でも自信過剰」というフレーズを使いたい。実の所、ほとんどの人間は自信過剰の気を持っている。多くの人が「自分は○○に関しては平均以上だ」という認識を持っているのだ。勉強・運動などに本当に自信がなくとも「自分はそれを正直に認める潔さがある」といった形で自信を持っている場合もある。これらは、人間が生きていく上で必要な、そしてとても大事な心理構造である。だが、この自信過剰があまりにも度を過ぎていると、自分や時には周りにも毒となってしまう。

 そもそも、自信過剰とは自信に実力が伴っていない状態のことを言うが、この自信過剰がなぜ起こるかと言えば、経験が少ないからである。例えば、何度か偶然の幸運で成功した場合、それ以降も同じことをくり返していればいずれ「ああ、あの成功は偶然だったのだな」と気付ける機会があるだろう。しかし、経験が少なければ偶然と実力を混同したままだ。これは、逆に自信喪失の場合にも当てはまる。一度の偶然でうまくいかなかったことを自分の実力が足りなかったからだと思ってしまえば、実力があるのに自信が伴わない“卑屈な人”ができてしまう。先程、未来への目標へ向かうには自信が必要であり、自信がないならばそれを身に着ける為の努力が必要だと述べたが、この努力こそが“経験を積むこと”なのだ。ちなみに、この経験を続ける為に必要なモチベーションを維持したいと思えば、行いに対する正当な評価と見返りが必要となる。例えば、労働に見合った賃金などだ。これは、自分だけでなく他人にモチベーションを維持してもらう為にも有用だ。お金に限らず、感謝の言葉なども見返りとして機能するので、まずはこれを心掛けてみると良いかもしれない。

 哲学の永遠のテーマの中に「人は何の為に生きるのか」という問いがある。本書では、この問いの答えとして以下の言葉を提示している。

人は良い社会でただ呼吸をしていたいわけではなく、良い社会にてまさにこの自分の生を自身の決断によってまっとうしたいのだ。

 そして、自身の決断を行うには、やはり自信が肝要となる。はたして、自信を失っている人に自分が満足できるだけの良い決断ができるだろうか。人は誰しも自信過剰――それは、少しくらい自信過剰な方が生きやすいからこそ、誰もがその道を無意識に選んでいるのかもしれない。

文=柚兎