【本日発売『つながりの蔵』書評】「裏側に死がぴったりと寄り添っているからこそ、子供らの日々は眩しいのだ」

文芸・カルチャー

公開日:2018/4/27

『つながりの蔵』(椰月美智子/KADOKAWA)

『しずかな日々』を思い出す。椰月美智子は2002年の『十二歳』で第42回講談社児童文学新人賞を受賞してデビューした作家だが、2006年の第3作『しずかな日々』(第2作は2005年の『未来の息子』)はいまにいたるも忘れがたい傑作といっていい。この作品で、第45回野間児童文芸賞と第23回坪田譲治文学賞をダブル受賞したほどの名作なので、それはいまさら強調するまでもない。

 その『しずかな日々』を思い出したのは、本書『つながりの蔵』もまた小学5年生の日々を描く小説だからだ。主人公は遼子。保育園からずっと友達の美音との日々が中心で、その幼なじみとのこと、さらにはクラス内のさまざまなことが描かれていく。しかし、もしもそれだけのことならば、「普通の小学生小説」にすぎない。いや、椰月美智子の小説であるならば、人物造形が秀逸で、描写が鮮やかであるから、それだけでもたっぷりと堪能できるから十分だ。そう思っていると、そこに四葉ちゃんが登場することに留意。この女の子については、こう描かれている。

「藤原四葉ちゃんとは五年生になって、はじめて同じクラスになった。四葉ちゃんはとてもおとなしい女の子で、あまり他の人と話しているところを見たことがない。授業で指されればちゃんと声を出して答えるけれど、普段はたいてい一人でいて、クラス全体を見回してにこにこしているだけだ。不思議ちゃん、と呼ばれているのを聞いたことがある」

 この四葉ちゃんがどういうふうに本書で活躍するのかは、もう少しあとで書く。その前にこの小説の基調音ともいうべきトーンを先に指摘しておく。それは、死の影が濃厚にあることだ。まず、美音の弟・利央斗が幼いときに亡くなっていて、それを思い出しては美音が泣くこと、遼子のおばあちゃんが病気で、お母さんはその世話で大変であること、四葉ちゃんの家にはおばあちゃんだけでなく、ひいおばあちゃんまでいること――そういう死んだ人、あるいは死に近い人が、ここにはたくさん登場する。

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 四葉ちゃんのひいおばあちゃんが、御詠歌(ごえいか)を歌う場面まであることも書いておく。遼子と美音と四葉の3人が、それを揃って聞き、さらにみんなで歌うのである。小学5年生の女の子が御詠歌を歌うのだから、やや異色の光景と言えるだろう。なぜ、こういうシーンが必要であったのか。

「死ぬということ」について遼子が考えるくだりでは、次のような述懐も描かれる。

「死んだらどうなるのだろう。そこで真っ暗になり、終わりなのだろうか。それとも天国があるのだろうか。そこは今の日本みたいなところだろうか。自分の家があって、死んだおじいちゃんがいるのだろうか」

 ここまで「死」の影が濃厚に描かれると、そこに作者の意図があると考えるのは当然といっていい。では、その意図とは何か。

 ラスト近く、四葉に案内された蔵の中で、遼子と美音が遭遇することをここに並べれば、一つのことが見えてくる。

 死はいつも私たちの身近なところにある。若者は死から遠い、ということはない。幼くても、青年でも、年配でも、死はいつも平等に、私たちの身近なところにある。「七つまでは神のうち」という言葉があるように、むしろ幼子のほうが、「あの世」に近いところにいるとも言える。だから子供らは闇をおそれ、死者を敬って日々を過ごしていく。裏側に死がぴったりと寄り添っているからこそ、子供らの日々は眩しいのだ。死の影を濃厚に描けば描くほど、その日々は鮮やかに立ち上がってくる。私たちが幼い子らを見るたびに敬虔な気持ちになるのは、自分の幼き日を思い出すから、だけではけっしてない。死へのおそれと密接に繋がっていた日々の記憶が蘇るからにほかならない。いや、そういうふうな気がしてくるのである。この小説がそう語りかけてくるのである。

文=北上次郎(書評家)