どうしてこんなに大変なの? 誰もが考えたい、もう一つの長時間労働「家事」のこと

文芸・カルチャー

公開日:2018/9/7

『対岸の家事』(朱野帰子/講談社)

「家事なんて、いい家電があれば仕事の片手間にできるし、専業でいる意味あるのかな」。小説『対岸の家事』(朱野帰子/講談社)のセリフだ。女の敵は女とはよくいったもので、「家事くらいやれて当たり前」と無意識に思っている女性がいるから、いつまでたっても重荷をおろせない人が多いんじゃないかと思う。

 けっきょく、そのセリフを吐いたワーキングマザーの長野礼子は、出産後ににっちもさっちもいかなくなって、専業主婦の隣人――主人公である村上詩穂を頼ることとなった。詩穂は、母が死んだ14歳のときからずっと家事の一切を任されてきた主婦のエキスパートだ。父親は何もしなかった。「お前がいないと困る」というズルい甘えで詩穂を家事にしばりつけた。18歳になった詩穂は家を出て、結婚し、かわいい娘ができた今も父親とは没交渉である。

 そんな彼女が専業の道を選んだのは、片手間にできるようなことではないと知っていたからだ。子育てがタスクに加わればなおさら。けれど礼子や、外資企業に勤める妻にかわり育休をとったエリート公務員・中谷は、詩穂があたかも自立から逃れ、サボっているかのように言う。ほかでもない詩穂の夫・虎郎は「二人で稼いでいる」と言ってくれているのに(その中谷もけっきょくは詩穂に助けられるのだが)。さらには詩穂のもとに「主婦は社会のお荷物です。この世から消えてしまえ」なんて怪文書まで届いてしまう。どこかぼんやりしている詩穂を守るため、礼子と中谷は犯人探しに奔走する。

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 仕事に追われていると、一人暮らしでさえ部屋はあっというまに汚くなるし、たまの休みが家事でつぶれてしまうなんてざらだ。ここに子育てが加わればどんな惨事を引き起こすだろう、専業とはいえ常に家をきれいに保って、弁当や食事を手作りしてくれた母はなんて偉大なんだろう、と思う。私なら、絶対無理だ。だったら仕事していたほうがずっと楽。それくらい家事が大変だと、日々の暮らしをととのえるのは重労働だと誰しもわかっているはずなのに、なぜだろう、いつのまにか“当たり前”に安住して忘れてしまうのは。

「あんたの母親を、俺の母親を、この人がしてきた仕事を、これ以上、馬鹿にするな」――ラストに中谷が放ったこの言葉は、家事を、主婦を、ないがしろにしがちなすべての読者に突き刺さる。簡単だと思っていた子育てと家事の無限ループにのみこまれて己を見失いかけた中谷のセリフだからこそ、よけいに。

『わたし、定時で帰ります。』で著者は「残業して当たり前」「無理して頑張ることこそが美徳」という風潮にクエスチョンを投げかけた。「定時で帰る=仕事の手を抜く」ではない。「専業主婦=働くことから逃げている」でも決してない。限られた時間で、自分にできることを、最大限の効率で行っていく――それが本当に“できる”ということなのに、なぜか人は倒れるまで無茶をする。だけど自分を追い詰めていく行為が正解であるはずがないのだ。

 だからといって、万人に通じる正解なんて存在しない。自分にとっていちばん大切なものを――自分自身を含めて守るために、それぞれの道を選んでいけばいいのだと胸を熱くさせられる小説だった。

文=立花もも