「10年間続けた治療を途中でやめられますか?」治療方針を聞いて冷静な判断を下すために…

社会

公開日:2018/10/22

『医療現場の行動経済学』(大竹文雄・平井 啓:編著/東洋経済新報社)

 もし、あなたやあなたの家族が重篤な病気にかかったとしたら、あなたは適切な治療を選択できる自信はあるだろうか。医療の現場での治療方針の決定は、かつては医師が選択していたが、現在はインフォームド・コンセントが一般的だ。

 インフォームド・コンセントは、医者が患者に医療情報を提供して、患者が治療の内容やリスクについて十分理解したうえで、医者と患者が治療の方針について合意して意思決定をしていくというものである。

 しかし、意思決定が非常に複雑で高度なものになった場合においても、患者に合理的な意思決定ができるであろうか。

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 行動経済学では、人間の意思決定には、バイアスが存在すると想定している。つまり、人は感情や思考のクセなどによって、理にかなった判断ができない傾向があると指摘されている。

『医療現場の行動経済学』(大竹文雄・平井 啓:編著/東洋経済新報社)は、医療現場におけるバイアスを明らかにし、できるだけ合理的な意思決定ができるようにと書かれた本である。

 医療現場におけるバイアスとはどんなものか。診療現場における事例をみてみよう。

 主治医「心臓が弱ってきています。抗がん治療をこれ以上することは、さらに心臓に負担をかけるので危険だと思います。抗がん治療は中止した方がよいと思います」

 患者「先生、ちょっと待ってください。今までも多少の抗がん治療の副作用がありましたけれど大丈夫でしたよ。抗がん治療をしないでこのまま最後を待つなんてできないです」

 上記の会話は、10年前に乳がんを患い、手術後に抗がん治療を受けてきた患者と主治医の間で交わされたものである。この患者は、10年にわたって体のあちこちにがんの転移がみられ、そのたびに薬を変更し治療してきた。転移をしても治療によって都度がんは小さくなっていたが、ここ数カ月、がんは進行し、さらに持病の心臓の病気の悪化のため、患者は夫に連れ添われて車いすで通院している。

 この患者が抗がん治療をやめたくない理由に、10年間もつらい治療をしてきたのに、それを中止すると、治療が無駄になるという思いがある。これは、行動経済学でサンクコストの誤謬と呼ばれているものの1つだ。サンクコストとは、埋没した費用という意味で、過去に支払った費用や努力のうち戻ってこないもののことを言う。

 10年間抗がん治療をしたという事実は、これからの治療法を選択する際に医学的にはまったく無関係な状況である。今考えるべきことは、こらから先のことだけということを理解してもらうよう、医師は患者に働きかけねばならない。過去のコストよりも将来の費用と便益で考えるように促すのである。

 バイアスには、「まだ大丈夫だから」と現在の治療法を維持しようとする現状維持バイアスや、「今は決めたくない」としてつらい意思決定を先延ばししたり、現在の気持ちが将来も続くとする現在バイアス、「がんが消えた」という広告をみてそれに飛びついてしまうといった利用可能性ヒューリスティック(すぐに手に入る情報を重視してそれだけで判断してしまうこと)などがある。いずれも、普段から私たちがやりがちなことではないだろうか。

 本書では、これらのバイアスがあることを示したうえで、逆に行動経済学的なアプローチによって患者を合理的な意思決定に導く方法が考察されている。行動経済学では、同じ情報であっても、その表現の仕方次第で私たちの意思決定が違ってくることが知られている。医師が患者に説明する場面においても、少しの工夫で患者のバイアスをなくすような伝え方というのができるのである。

 また、バイアスがかかるのは患者だけではない。医療者の意思決定においてもバイアスはかかる。例えば、「なぜ一度始めた人工呼吸管理はやめられないのか」という問題は、行動経済学的に分析すれば、生命維持治療は「差し控え」よりも「中止」することに倫理的に強い抵抗を感じてしまうからだ。そして、経済行動学では両者は同質の行為であると説明することができるのだ。

 本書は医療者向けに書かれたものではあるが、実際、自分が患者やその家族の立場になった時に冷静に判断ができるとは限らない。だからこそ、窮地に立たされた時にどのような心理状態になりがちなのか本書を通して知っておくことは、今後役にたつかもしれない。

文=高橋輝実