なぜ江戸幕府は「遊郭」を公認したか? “色街”をめぐる、お上と庶民の攻防

社会

公開日:2019/1/25

『江戸を賑わした 色街文化と遊女の歴史』(安藤優一郎:監修/カンゼン)

 今の景気回復が「いざなぎ景気」を超えて戦後2番目の長さになったと報道されても、ちっとも実感なんか湧かない。しかも平成が終わり新元号となる今年は、消費増税が決まっているのだから自分の景気回復はいつのことになるのか考えると気が滅入る。そんなおりに目に飛び込んできたのが、華やかな色彩の表紙の『江戸を賑わした 色街文化と遊女の歴史』(安藤優一郎:監修/カンゼン)だ。読んでみるとお上と庶民の攻防が面白い。

 江戸時代に繁栄していた幕府公認の色街である「吉原(よしわら)」と、非公認の「岡場所(おかばしょ)」について書かれた本書によれば、体を差し出して対価に金銭をもらうという行為が日本において記録に表れるのは、奈良時代後期に成立した『万葉集』だそうだ。「遊行女婦」と書いて「あそびめ」あるいは「うかれめ」と読み、これが「遊女」の語源になったと思われる。そして鎌倉幕府は遊女を取り締まったが、室町幕府は遊女から税金を取り立てる代わりに公認し、この制度は江戸幕府にも引き継がれ「吉原遊廓」の誕生となった。

 その吉原遊廓が幕府に公認された経緯はといえば、風紀や防犯上の理由のようだ。江戸時代になって各地から多くの人が集まったものの、武士や職人に人足(にんそく)といった男性ばかりが圧倒的多数を占めるというアンバランスな人口構成になり、そこに目をつけた上方の遊女屋もまた移転してきたという。そして幕府が対応に困っていたおりに庄司甚内という人物が、遊女と客を遊郭に囲って江戸の治安維持にひと役買うという理屈で、公認の遊女町をつくりたいと願い出たそうだ。こうして吉原遊廓は最初に日本橋人形町に設置され、後に浅草の日本堤へと移されたことから、人形町にあった遊郭を「元吉原」、新しい遊郭を単に「吉原」あるいは「新吉原」というようになった。

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 吉原以外の遊女屋の開設は禁止されたけれど、人が集まる宿場町には非公認の「岡場所」と呼ばれる遊里(遊女屋が集まった地域)が生まれた。岡というのは公認外を意味する「外(ほか)」が由来らしく、駄洒落みたいなもんである。しかも岡場所を表では「飯盛旅籠(めしもりはたご)」と称して、遊女は「飯盛女(めしもりおんな)」といった。これもまた庶民の知恵というか、したたかさというところか。もちろん幕府は取り締まりに乗り出すのだけれど、幕府の公用の書状や荷物を運ぶ伝馬制度において重要な、人馬と宿泊施設の提供を宿場町の宿駅に義務付けており、特に人馬の提供が宿駅にとっては経済的に大きな負担となっていたため、1軒の飯盛旅籠につき飯盛女は二人までという条件で黙認せざるを得なくなったそうだ。しかもその規制さえ緩和され、江戸四宿(ししゅく)に数えられる品川宿・内藤新宿・板橋宿・千住宿を合わせると飯盛女は900人ほどになった。

 吉原の遊女といえば大きなかんざしをつけていて派手なのに対して、四宿の遊女は遠く及ばなかったそうだけれど、深川の遊女は吉原にも劣らない人気を獲得するようになったという。なんでも彼女たちは、常に薄化粧で華美な衣装をあえて着ずに「粋」を大切にしており、それを著者は「侠(きゃん)」と解説している。強者をくじき弱者を助ける男気のある気風のことで、本来は男女問わずに使われていたのが、現代では廃れ気味であるものの、女性を「おきゃん」と形容するようになった所以なのだとか。

 ところで本書には、カラーページも含めて多くの図版が収録されており、その中にはモザイクが必要そうな春画も載っている。それらにモザイクが入っていないのは、今や文化財であり歴史的な資料でもあるからという理屈なのだろう。すすんで法律を破る度胸は無いし、公序良俗に反する気もないけれど、本書から垣間見える知恵を絞ってしたたかに生きた庶民の力強さを見習いたい。

文=清水銀嶺