江戸時代まで庶民は名字を持っていなかったというのは誤り!? 自分の名字のルーツを遡ると――

文芸・カルチャー

2019/4/14

『名字の歴史学』(奥富敬之/講談社学術文庫)

 新年度となり、新しい顔ぶれの中に身を置くことが多いこの季節。私は学生時代に毎年ちょっと嫌だったことがある。それは、姓名の五十音順で出席番号を振られるのだが、この番号順だと名字がア行の人は、慣れないクラスでいきなり日直や当番などをやらねばならないということ。春は名字に関連する損得を感じる季節でもある。

 そもそも、なぜ自分はこの名字なのだろうか? 名字は、明治以前には武士などの偉い人しか持っていなかったというから、曽祖父あたりのご先祖が明治になって適当に付けたのだろうか? …こういった生まれてこの方のモヤモヤを解きほぐす、とっておきの1冊が『名字の歴史学』(奥富敬之/講談社学術文庫)だ。読めばなんと、一般庶民にも名字があったというではないか。それならば、なぜ庶民の名字は明治になって出来たといわれているのだろうか?

■江戸時代まで庶民は名字を持っていなかったというのは本当か?

 本書をガイドに、明治の初めにタイムスリップして人々の様子を見てみよう。

 明治政府は近代国家樹立・富国強兵のために戸籍を整備することになった。「国民みんな名字を付けて戸籍登録を」と発表するが、庶民は自分の名字がわからない。そこで、多くの人が近所の寺に確認をしにいったという。古い記録を引っ張り出してきて「ほうほう、俺の名字は◯◯だったのか」というイメージで、戸籍を登録したそうだ。

 ということは、確かに江戸時代、庶民は名字を使っていなかったということだ。しかし、これは200年以上名字を使っていなかったので、親族もそれを覚えていなかっただけである。本当は名字を持っていたのだ。では、持っているのに使わなかったというのはなぜだろうか? しかも、お上が使用を禁じたわけではないという。

 本書によると、江戸時代の庶民が意識的に名字を使わなかったのは、土地を持たぬ者が名字を名乗ることをはばかる風潮があったからだという。古くから、武士は「土地」というものに、一所懸命に守る地、自分の収入が上がる地という意識を持っていた。手柄を立てて恩賞として貰うもの、つまり「御恩と奉公」の関係の中にあるのが土地であり、土地を持って初めて、堂々と表にできるのが名字だったのだ。

■江戸時代に皆が持っていた名字のルーツを遡ると――

 では、表にしないが実は皆持っていた名字は、どこからやってきたのか?

 そのルーツは、奈良時代以前にまで遡るという。名字は、身分の上の者が下の者に与えるもので、そのトップは天皇だ。大和朝廷下では、氏(うじ)と姓(かばね)の2つがあり、氏が血縁を表すグループ名で、姓が職能を表す名だった。これが、徐々に氏だけになっていき、また臣籍降下や分家でどんどん枝分かれしていくという流れになる。そして、同じ氏が増えすぎて紛らわしくなると、呼び名として使える名称が必要になり、氏と住んでいる土地の名と掛け合わせて、今でいう名字となった。武士が名字と土地をセットで考えるのは、この流れに由来する。

 古い例では、すでに平安末期には、桓武平氏である平良文(たいらのよしふみ)は「村岡五郎」と名乗っていたという記録がある。この「村岡」は元々は地名だ。

 そして、これは身分の高い者だけでなく、下々にまで至ったそうだ。奈良時代の戸籍には、田畑を耕す一般の民の名字も残されている。政治の混乱で、戸籍どころではない時代になると、中央集権的な名字の記録は途絶えるが、庶民は自分が耕作している土地の所有者から恩賞として氏名(うじな)を貰い、また、地区の共同体意識を強めるために自分たちで名称を掲げることもあったので、決して太郎や次郎といった個人名だけで存在していたわけではないのだ。だから、明治になった時に、その地区の寺に記録が残っていたというわけだ。

 さらに、江戸時代半ばには、現代と同じように、名字を自分の由来を解くものとする通念も生まれていたそうだ。「苗字」という、稲の元の姿である苗、つまりは自分の“根っこ”を連想しうる漢字を使うようになったことがその表れだ。

 こうして名字の歴史を知ると、庶民だから適当に付けられたのだろうと思っていた自分の名字も、古くから続く人々の営みの中に由来することがわかる。春のちょっとした不条理も、よい思い出になりそうだ。

文=奥みんす