『海の見える理髪店』――短篇の名手・荻原浩が調合した、心を癒す6つの魔法薬

文芸・カルチャー

2019/6/8

『海の見える理髪店』(荻原浩/集英社)

 本作『海の見える理髪店』(集英社)は、2016年に、まもなくデビュー20年目を迎えようとしていた荻原浩を直木賞受賞に導いた短篇集だ。発売から3年が経ち、このたび待望の文庫化と相成ったわけだが、この本ほど文庫という形式がふさわしい一冊はないかもしれない。手持ち無沙汰な電車の中や、一息入れるカフェのような、日々のちょっとした隙間に読みたい6つの物語が収められているからだ。人は、そんな時間にこそ人生の忘れ物に向き合える。

 表題作「海の見える理髪店」は、海辺の小さな町の、中心から離れた海岸沿いにある理髪店が舞台で、登場人物は遠来の客と物慣れた老店主の2人。

 店主は、客に問わず語りで自分の人生を聞かせる。客は黙ってそれを聞く。伝説の腕をもつ男の一代記は、50代を過ぎて急転直下の展開を見せる。

 だが、物語はただの回想では終わらない。ラスト近くになってあっと驚く真相が現れる。それでも本作の読み口はどこまでも静かで、深い。他の5作も同様だ。どこにでもいる人々の、人生における喪失を描きながら、大上段に構えたところは一つもないのだ。

 直木賞の選者の一人である高村薫は「私たちのさりげない日常は、こうして切り取られることによって初めて『人生』になるのだと気づかされる」と評したが、著者は人が日常を積み重ねていく中でゆくりなく発生してしまう積み残しを、繊細な描写で紡いでいく。

 各話の主人公は、いわゆる毒親の類に入る母によって心を傷つけられた娘、家庭を顧みない夫にしびれを切らして実家に帰った妻、親の離婚で生活が激変した8歳の女の子、父の形見の時計を修理することにした中年男性、娘に死なれた夫婦と、平凡だけれどもバラエティに富んでいる。きっと誰もが彼らのどこかに自分自身の姿を見つけることになるだろう。

 各話で、主人公は家族を通して自分の過去と向き合うことになる。それは決して懐かしいだけで済む作業ではない。時には痛みや苦みが伴う。子供だって例外ではない。

人生って手紙ですらすら書くようにはいかないものだ。(「遠くから来た手紙」より)

 それでも、生きている限りは進んでいかなければならない。

 本書の掉尾を飾る「成人式」は、娘の死から立ち直れない夫婦が、ある突拍子もない方法で心の決着をつけていく物語だが、最初は沈鬱一方だった2人が、ばかばかしい思い付きをきっかけに再び顔を上げて歩みだす姿に、自分の中にもある「立ち止まったままの過去」が励まされるように感じられた。

「時計が刻む時間はひとつじゃない。この世にはいろいろな別々の時間があるってね。」(「時のない時計」より)

 長い人生、突然時が止まることもある。そうなったら、再びネジを巻く気力がわくその日まで立ち止まってもいいし、壊れてゆっくり進む秒針に歩みを合わせてもいい。

 本書で描かれたちょっぴりビターな、でも心にしみる愛おしい家族の物語は、そんなことを教えてくれた。

文=門賀美央子