『羅生門』の「最後の一文」は一度改稿されていた! 名文が多い小説の“ラスト”を楽しむ方法

文芸・カルチャー

2020/1/1

『最後の一文』(半沢幹一/笠間書院)

 小説の“最初の一文”は名文と称されるものが多いが、ひとつの物語が終わる“最後の一文”に注目する人は少数派かもしれない。しかし、最後の一文は作品を締めくくる大切な存在でもある。

 そんな終わりの一文に着目したのが『最後の一文』(半沢幹一/笠間書院)だ。同書は、共立女子大学文芸学部で教鞭を執る半沢幹一教授が、さまざまな文学作品を最後の一文から読み解いていくガイドブック。国語の教科書にも載っている文学作品や現代小説など計50の“最後の一文”が登場する。

 たとえば、芥川龍之介『羅生門』。高校国語でも扱われるので、『羅生門』の最後の一文なら覚えているという人も多いのではないだろうか。説明不要かもしれないが、あらすじをざっと紹介しよう。

 羅生門の下で雨宿りしていた下人の男。門の上で一夜を過ごすために階段を上ると、そこには死人の髪を抜いている老婆がいた。当初は、死人を冒涜する老婆の行動に対して怒りを感じたものの、死人の髪を抜いてカツラにして売る、そうでもしなければ餓死してしまう、と話す老婆の言葉を聞いた男は「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死する体なのだ」と言い放ち、老婆が着ていた檜皮色(ひわだいろ)の着物を剥ぎ取って羅生門を去る。

 そして同作は、

下人の行方は、誰も知らない。

 という一文で締めくくられる。

 じつは、この有名な一文、最初に発表された雑誌『帝国文学』には、

下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。

 と書かれていたそう。

「下人の行方は、誰も知らない。」という文章は、後に芥川龍之介の手によって書きかえられたものだったのだ。

 これ(改稿前)は、下人がその後、悪の生き方を選んだことを明確に示す終わり方です。改稿後の「下人の行方は、誰も知らない。」では、下人のその後については読者の想像に任されています。このほうが、作品としての含みや余韻があると見ることもできるでしょう。
 ただ、「誰も知らない」という表現は、最後の最後になって、どこか下人を突き放してしまった感じがしませんか。その点が、最初の時の表現とは本質的に異なる点です。

 学校の授業では「生きるための悪という人間のエゴイズム」を描いたものとして扱われる。しかし、最後の一文の改稿前と改稿後では芥川龍之介が『羅生門』で描こうとしていたものが異なるのでは、と半沢氏は綴る。そして、改稿前は「生きるための悪という人間のエゴイズム」を描くつもりだったかもしれないとしたうえで、以下のように考察する。

芥川はたぶん、教科書で問題にするような「生きるための悪という人間のエゴイズム」そのものを描こうとしたのではなく、それを相対化、つまり一概に悪いとは決めつけられない形にしようとしたのではないかと考えます。

 改稿の真意は芥川龍之介にしかわからないが、下人の行方をぼやかすことで読み手の解釈の幅はグンと広がったはず。もしも最後の一文が改稿前のままだったら、国語の教科書に載らなかったかもしれない。もちろん、同作の魅力は最後の一文だけではないが、そんなタラレバを夢想してしまった。

 同書ではほかにも、宮沢賢治の『やまなし』や中島敦の『山月記』など馴染み深い作品をはじめ、新海誠監督の『言の葉の庭』も取り上げている。文学の新たな楽しみ方を提示してくれる一冊だ。

文=とみたまゆり