2024年、ついに日本で安楽死法案が可決。東京五輪後に施行される尊厳死を選ぶ人の心境とは?

文芸・カルチャー

2020/2/10

『小説「安楽死特区」』(長尾和宏/ブックマン社)

 少子高齢化に伴う社会保険料増大に対して懸念する声が目立つ。誰かが支払っている保険料によって、万が一のときは自分も救われるという相互扶助の仕組みも、世代間の人口比が変化してきたことから先行きが危うくなりつつある。
 
 そう遠くない未来を描いた『小説「安楽死特区」』(長尾和宏/ブックマン社)は、フィクションでありながらも医療保険制度に危機感を募らせる現代に向けて警鐘を鳴らすリアルな1冊。著者の長尾氏は、終末期に関する多くの著作がある医師だ。

■作家としての矜持から“死”を願う登場人物

 本書の舞台となるのは、東京オリンピックの開催後となる2024年の日本。登場人物のひとりである人気女流作家の澤井真子はある日、助手にすすめられてかかった病院で、みずからがアルツハイマー型認知症であることを知る。

 医者から伝えられた「悪魔の宣告」に動揺した彼女の心に思い浮かんだのは「ただ楽に、痛くなく、恥をかくこともなく死にたかった」という気持ち。しかし、ふと我に返った彼女は「作家としての鎧を被れば、どんな場所に行くのも平気。どんな話も怖くない」と、自分自身の現状と向き合い始める。

 そして後日、彼女は担当編集者から「今度できる〈安楽死特区〉の住人として入ってもらって、ウチの雑誌にその体験談の連載をお願いしたい」と告げられる。安楽死特区とは、ストーリーを牽引する核となる架空の法制度。社会保障費の増大により疲弊した財政状況や終末期医療の問題を解決するべく、安楽死を望む人たちを収容し合法的に死をもたらすことを目的としている。

 作家としての矜持を保ちながら一生を終えたい…。そう願う彼女がいかに決断するのか、そして彼女を取り巻く登場人物たちがそれぞれ抱える葛藤は、本書のひとつのみどころだ。

■自ら死を選ぶことを、“自己愛”と切り捨てられるか?

 現実世界でも絶えず議論されている“安楽死”の是非を芯から問いかける本書。多発性硬化症という難病を抱える章太郎に一生寄り添うことを決めた旅行写真家の女性・岡藤歩は、自ら死を願う恋人に対して大きな葛藤を抱く。

 ある日、章太郎から「安楽死」という言葉を聞いた歩は、「本気で言っているの? それってつまり、もっと病気が進行したら死なせてくれって言っているのと同じよね?」と食ってかかる。しかし、誰よりも自身の病状を知る章太郎は、「俺は、もう死にたいん、だ。歩けなく、なったら、俺は俺でなくなる、前に。かんべんしてほしい」(原文ママ)と彼女へ返す。

 このやりとりからにじむのは、安楽死に対して当事者が考えることと周囲で支える家族たちの感情の違いだろう。本人は「つらい思いを続けるよりも、死にたい」と望むのに対し、家族らは「一日でも長く一緒に生きてほしい」と願うからだ。本書では章太郎の一節として以下のような文章も綴られている。

「今すぐ安楽死賛成なんて声高に叫んでいる人間は、いわゆる日本人らしくない超利己的な奴らだと思われる。歩よ、許してくれ。利己的な男と出会ってしまって運が悪い女だな。だけど婆さんになるまで俺の介護をしたいかい? 俺が安楽死したら、そのときはさっさと忘れて今度は利己的じゃない男を」

 章太郎がブログに綴る言葉は、身体が不自由な章太郎に代わって歩がキーボードを打つことで紡ぎだされていく。その歩が章太郎の身勝手なセリフにやりきれなくなって途中で手を止めてしまうのだが、自ら“死”を選ぶという安楽死は、果たして本人の“自己愛”や“エゴ”だと言い切れるだろうか? この強い訴えは多くの人の胸に響くだろう。

 現在すでにオランダやベルギーなど、一部の国では安楽死が法制化されている。日本でもかねてより議論がくり返されているが、人それぞれの尊厳を保つ選択肢として“死”を認めるべきか否か――本書を読むことでさらに深く向き合うことになるだろう。

文=カネコシュウヘイ