SFを通して“人間の本質とは何か”を問う「現代SF界最高の作家」の緻密で美しい世界に酔いしれる…テッド・チャン『息吹』

文芸・カルチャー

2020/2/29

『息吹』(テッド・チャン:著、大森望:訳/早川書房)

『息吹』は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、英国SF協会賞、星雲賞など国内外の名だたる賞を次々と受賞し、“現代SF界最高の作家”との呼び声も高いテッド・チャンの最新作品集。書き下ろし2編を加えた全9編が収録されている。テッド・チャンといえば、2016年公開の映画『メッセージ』の原作小説『あなたの人生の物語』を手掛けたことで、SFファン以外にもその名を知られるようになった。『あなたの~』が2003年に刊行されて以来16年ぶりの作品集である『息吹』には、SF小説ファンのみならず、SF初心者にもおすすめの短編が詰まっている。

「SFって、設定に入り込めないし理解しづらそう」と苦手意識を持つ人も、まずは冒頭の短編「商人と錬金術師の門」を読み始めれば、あっという間に作品世界に引き込まれるだろう。「商人と~」は、バグダッドを舞台に繰り広げられるタイムトラベルSF。とある不思議な店に存在する〈門〉を片側から反対側へくぐると、“20年前”と“20年後”の世界を行き来できるという。もっとも、時間移動はできても過去や未来を変えることはできない。タイムトラベルものにありがちな“過去を変えることで未来に起こる災厄を防ぐ”話ではないのがこの作品のポイント。では何のためにこのような〈門〉があるのか。さながら「アラビアンナイト」の世界をベースとした幻想的な雰囲気の中、織物のように緻密かつ美しく紡がれる物語を旅するうち、過去の出来事を複数の視点から見つめ直すことの意味が問われていく。

 緻密に紡がれた物語の美しさといえば、表題作「息吹」も例外ではない。ここに登場するのは、空っぽになった肺を新しい肺と交換することで永遠に生きられる住民たちの世界。寿命など気にせず生きることを繰り返してきたその世界に、ある時ほんのちょっとしたズレが生じる。このズレに疑問を抱いたことをきっかけに、物語の語り手である科学者は、自分の脳を解剖し検証するというとんでもない実験に臨むことになる。

“意識とはいったいどのように生まれるのか”“自分たちの生命の本当の仕組みとは”といった謎を解き明かしていく過程は、非常に論理的で説得性が強い。同時に、語り手が試行錯誤を繰り返しながらも世界の真実にたどり着く様は、まるで現実の人間世界にも通ずるようでとても感動的なのだ。

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」では、〈ディジェント〉というAIのデジタルペットと人間との関わりを描く。そこにあるのは“人間の知能を凌駕し脅威をもたらす人工知能”などではなく、人間味あふれるディジェントたちとのやりとり。aiboやPepperなどと触れ合う機会も増えてきた私たちにとっては、そう遠くない未来のような気がして思わず登場人物たちに感情移入してしまう。

 他にも、パラレルワールドに存在する人々との対話の中で、本当の倫理観があぶり出される「不安は自由のめまい」など、SFのガジェットを通して“人間の本質とは何か”という哲学的な問いが投げかけられる。緻密な筆致の中にエモーショナルな世界が広がるからこそ、チャンの作品は多くの読者の心を惹きつけるのだ。

文=林亮子