なぜ少女は「わりばし」に転生した⁉ 芥川賞作家・今村夏子の最新作は、奇妙で不穏で純粋な愛の物語

文芸・カルチャー

2020/3/27

『木になった亜沙』(今村夏子/文藝春秋)

 芥川賞作家・今村夏子さんの小説は、いつも不穏な気配に満ちている。文章から想起される情景がいつ反転するのか、信じている世界がいつ覆されるのか、どきどきしながら読み進める。その不穏さは切実さの裏返しでもあって、“普通”からちょっとズレた人たちが、懸命に、とにかく懸命に生き延びようとした結果、どんどんズレを大きくしていってしまう姿に、私たちはぞわぞわしながらも、心を打たれてしまう。

 最新短編集『木になった亜沙』(文藝春秋)はとくに、その切実さが強かったように思う。表題作の主人公・亜沙は「差し出した食べ物を誰も受けいれてくれない」という奇妙な運命を背負った少女だ。クラスで飼っている金魚さえ、亜沙が撒いた餌には決して食いつかない。つくった料理はどんなにレシピどおりでも微妙な味になる。周囲の人間は、亜沙の差し出すものは毒入りなんじゃないかと思い込み、ますます手をださなくなる。

 たぶん、亜沙は、間がわるい。そして、要領も、わるい。たとえば好きな男の子へのプレゼントに、彼が嫌いなものにまみれた、彼がいちばん嫌いなクッキーをつくる。検査予定で、なにも食べちゃいけない母に、つくりなおしたクッキーをあげる。食中毒事件の原因となったインゲン豆を配膳する係になってしまう。もちろん彼女に非がない場合も、理屈では説明のつかない場合も、たくさんある。でも、世の中にはこういう、何をやっても上手にできない不器用な人というのがいる。そういう人は、なぜだかわからないけれど、取り残される。どうして誰も、食べてくれないの。という亜沙の切迫感が行間からひしひしと伝わってきて、いじめられる側からいじめる側にまわった彼女が、「食べて、お願い」とちからずくで後輩に食べさせる描写に、胸が痛んだ。

 やがてスノボをしている最中、道をそれて木にぶつかった彼女は、自分の差し出したチョコは食べないのに木から落ちた果実は食べるタヌキを見て、「木になりたい」と思う。そうして目が覚めたとき、望みどおり木になっていた亜沙は、やがて「わりばし」となってある青年のもとに辿りつく。青年の手を介し、はじめて亜沙は食べ物を人の口に運ぶことに成功するのだけれど、彼もまた、うまく生きることのできない人だった。亜沙がわりばしになってからは、物語は想像のつかない展開をみせるので、ぜひとも本を手にとって味わってほしい。

 2話目「的になった七未」も、「決して当ててもらえない」運命を背負った少女の物語。どんぐり当ても、ドッジボールも。相手がどんなに躍起になっても、逃げる七未に当てることはできない。そのせいで七未はいつも、最後はひとりぼっち。やがて自分に自分のこぶしを“当てる”ようになった彼女は、病院で妻のいる主治医と恋をするのだが……。

 亜沙も七未も、それ以外の人々も、生きるためにあがき続けた結果、最後は“そこ”に辿りつくしかなかった。彼女たちの迎えたラストは、はたから見れば幸せから縁遠いかもしれない。けれど何かをまっとうしきった彼女たちには、どこか、うつくしさと尊さがあるような気がして、彼女たちの生きた道筋を、読み終えたあと、何度も何度も反芻した。

文=立花もも

この記事で紹介した書籍ほか