開けてはならない、満たされぬ欲望への入口――女性3人が抱える秘密とルッキズムの呪いを描く心理サスペンス

文芸・カルチャー

公開日:2020/7/18

『夜の向こうの蛹たち』(近藤史恵/祥伝社)
『夜の向こうの蛹たち』(近藤史恵/祥伝社)

 昆虫の蛹の内側は、ほとんどの組織がどろどろに溶けている状態だという。硬い殻をまとわなければ、自分の内側を保てない。そんな繊細な状態だから、揺さぶるだけで死んでしまうこともあるそうだ。その状態は、なにかに似ている。自分の内に渦巻く感情を制御しきれず、嘘で外面を取り繕っている──人生のある時期に訪れる、2度目の思春期のようなものが連想できないか。

『夜の向こうの蛹たち』(近藤史恵/祥伝社)の主人公・織部妙は、7年前に新人賞を取ってデビューし、キャリアを積み上げてきた35歳の女性小説家。著作は順調に版を重ね、予定は3年先まで埋まっている。それはデビュー前、夢見た生活であるはずだった。それなのに妙は、単調な日常と、毒にも薬にもならない自分の書くものに退屈していた。

 橋本さなぎという新人の名を知ったのは、そんなある日のことだ。美人作家として話題の彼女に興味を惹かれ、妙はさなぎのデビュー作を手に取る。少しも好きな小説ではなかった。が、おもしろい小説であることは間違いない。「自分にはこんな生々しい小説は書けない」と嫉妬するほどだった。

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 だからこそ、とある文学賞のパーティで橋本さなぎと対面したとき、妙は彼女に幻滅した。噂どおり、さなぎは華やかで美しい人だった。営業用の笑顔を振りまき、気配りも完璧で、妙の小説を絶賛する。けれど妙が恋をするのはいつも、こちらを振り回す女だ。才能と美しさを併せ持つさなぎが、もっと自分勝手な女であれば、彼女に夢中になることができたのに──。

 気を削がれた妙は、会場の目立たない場所に、ひどく目立つ女性を見つけた。背が高く、肉づきがいい。年齢は若そうだが、一重まぶたは腫れぼったく、ぽってりした唇には口紅さえ塗っていない。妙は彼女を見た瞬間、雪崩に呑まれるような欲望を感じた。恋と呼ぶには邪すぎる、あからさまな欲望だ。さなぎは妙に、「初芝祐」という名札をつけた彼女を、自分の秘書だと紹介した。

「ゆうちゃん、彼女は織部妙さん。わたしが好きな作家さん」
「ああ、読んだことはあります」
 彼女はとってつけたようにそう言い、わたしをどこか冷めたような目で見下ろした。読んだけれど、つまらなかった。その顔はそう言っているようだった。
 背筋がぞくぞくした。
 そう、わたしは好きな人からこんなふうに見られたかったのだ。

 だが、まだ新人のさなぎに、秘書を雇う余裕などあるだろうか。違和感は、ふたりと関わりを持つたびに大きくなった。実物のさなぎは、小説やSNSのそっけない印象からはかけ離れている。編集者との打ち合わせは、秘書であるはずの祐が行うこともあるという。妙は祐への興味から、ふたりの事情に深入りしてゆくことになるのだが、妙が覚えた小さな疑惑は、女たちの欲望が渦巻く“秘密”への、開けてはならない扉だった…。

 持って生まれたものは、みな違う。どれだけ焦がれ、願っても、水に棲む魚は空を舞う蝶にはなれず、蝶は地を駆ける馬にはなれない。さらに時間は、有限かつ不可逆だ。幼虫は幼虫のままではいられず、背が割れはじめてしまった蛹はもう、羽化して飛び立つ以外に生きていかれる道はない。

 蛹の内側は、組織がどろどろに溶けている状態だという。外部からの刺激に弱い蛹は、生き物としては脆弱すぎる存在だ。それでもなお幼虫が蛹になるのは、より広い世界へと、飛び立つときがきたからだ。

 たがいの欲しがるものを手にした3人の女が織りなす、それぞれの羽化までの物語。彼女たちの軌跡は、作り笑顔をまとって生きる現代人の、やわらかな内側に届くだろう。

文=三田ゆき