継続はチカラ無しで可能!? アーティスト・坂口恭平が体現する「土のような感受性」入門

文芸・カルチャー

公開日:2021/9/30

土になる
『土になる』(坂口恭平/文藝春秋)

「緊急事態宣言を出しても効果がない」という怒りの声が日本各地で噴出している。「緊急事態」という言葉とマッチしない状態が目の前で繰り広げられ、言葉の意味が薄れたときに信用できる「頼みの綱」は、医師でも専門家でもなく自分自身だろう。

 自分の感覚を100%頼りに生きている人物が熊本にいる。やりたいこと全てを全身全霊で作品にし続けてきた坂口恭平氏だ。早稲田大学の建築学科を卒業し、2畳ほどの移動できる家「モバイルハウス」を発明し、東日本大震災後には生まれ故郷の熊本へ移住して「独立国家」を樹立し、自身のうつ病の経験を活かしたボランティア自殺防止ダイアル「いのっちの電話」を2012年から継続し、近年ではパステル画のスキルを独力で発展させるなど、活動は本記事で紹介しきれないほど多岐にわたる。『土になる』(坂口恭平/文藝春秋)は、熊本で畑作業をはじめたばかりの著者が、畑の師匠・ヒダカさんとのコミュニケーションのことを中心に、メディアプラットフォームのnote上に綴った「日々の模索」についてのエッセイ集だ。

 物語は、畑をはじめて約1カ月の時点からはじまる。著者は特に向き不向きは気にすることなく、興味ある対象に全力で向かっていく。「継続は能力に関係なく、興味があるかないかが全てだ」という考えのもと、畑での日々の出来事は、本に焼印が押されたかのような熱量で記録されている。

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畑は一生やりたいなと思った。「いのっち電話」だって一生やりたい。本も一生書きたい。絵も一生描きたい。歌だって一生歌いたい。もうそれだけで十分だ。一生やっても満足できない。次自分が作ったものを見たい。僕にとって生きるとは「次」のためだけである。そこも野菜と似ている。

 エッセイが書かれたのはコロナ禍の2020年6月から7月の間だ。しかし、コロナ禍に関する描写はほとんどない。著者はきっと、新型コロナウィルスのニュースを日々見て様々な意見も持っていたはずだ。しかし、そこに感情は生まれなかった。

 では、著者の感情はどこに芽生え、根を張り、伸びていったのか? たとえば、畑のトウモロコシが「何者か」によって食べられ、どうやらハクビシンの仕業だとわかったときの著者の反応は、自分自身を何かの植物かのように眺めたようなリアクションだ。

つい僕はとうもろこしにかぶりついてみた。ハクビシンが食べた後も、汚いものだとは思わなかった。切って、残りを食べたらいいと思った。こんなふうに思ったことも畑をしたからだと思う。よくわからない生き物が食べたら、汚いと思っていたはずだ。今なら平気な顔で食べられる。

 著者の文章は、まず目の前の事実をジッとみつめて、しっかりと描写し、その土台の上に感情を生やすという順序が多くとられている。エモーショナルな文章が連続するのに、感情任せではない。私たちが一日の出来事を綴り続けるとき、著者と同じぐらい具体的かつ自然体になるまで感情描写をトレーニングし続けるだけで、幸福な気持ちになれるのではないかと筆者は思った。

 タイトルにある「土になる」というのはつまり、感情を培養する土を耕して土壌をつくり、その温度を感じながら生きていくということだと筆者は解釈した。「耕す」というのは、「いのっちの電話」で苦しさを訴える男性に「心臓が苦しさの原因だ」と即座に指摘して心臓が楽になる姿勢を伝えることができたり、気が進む進まないにかかわらずパステル画を必ず1枚描くことができたりという「継続」のことだ。

 畑の先生・ヒダカさんが、著者の創作物をとことん好む相思相愛の様子には、憧れを感じた。作物、作品、そして価値観までもが交換されて生活が営まれていくという理想郷のようなニューノーマルは、既に著者の暮らす地で実現しているのだろう。

文=神保慶政

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