背後から凄まじい気配を感じる――冷や汗が流れ出た、その時/澤村伊智「高速怪談」【全文公開⑤】

文芸・カルチャー

公開日:2022/8/13

『ぼぎわんが、来る』の澤村伊智氏による、小説の形をした怪談集『怪談小説という名の小説怪談』(新潮社)。
子連れで散歩中に見かけた怪しげな物件、語ってはいけない怖い小説、新婚旅行で訪れた土地での出来事…など、暑い夏の夜にゾクゾクする珠玉の7編を収録。
本連載では、「高速怪談」を7回に分けて全文公開! 関西方面に向け、乗り合わせて帰省をする男女5人。ひょんなことから車内で怪談会がはじまって…。ラストまで見逃せない傑作短編。

石黒さんの話

「お前それ『作り』やろ!」

 沈黙を破ったのは石黒さんの怒鳴り声だった。思わず助手席から飛び上がる。

「はははは」

 真柄さんは豪快に笑うと、「さすがに気付いたか」と再び煙草を摘んだ。

「もおー、勘弁してよ」

 汀さんが不機嫌そうに言った。ぺちぺちと何度も叩く音がする。

「でもオチ以外は実話やで。一ミリも盛ってへん」

 煙を吐きながら真柄さんが返した。ふわあ、と大きな欠伸をする。

「いや……参りました」

 僕はそう言っていた。「真柄さん、こういう話するの得意だったんですね」

「カメラマンは話すんも大事や。トークで被写体に心開いてもらわんとな」

 煙草を咥えたまま素早く後ろを振り返ると、

「参考になりそう?」

 と訊いた。石黒さんは「ならんこともないけど、せいぜい三ページくらいかなあ」と悩ましげに答える。

「ちょっと。偉そうに何言ってんの。せっかく話してもらってるのに」

 汀さんが言った。ぺちん、ぺちん。

「あんたも何か話したら? なかったら即興で作って」

「できるか、そんなもん」

「やりなよ」

「こら、何すんねん」

 がさがさ、とレジ袋が鳴った。布の擦れる音がする。ぼそぼそと話し声も。合間にぺちぺちと叩く音も。くすくす笑い声も。

 まさか、と背後の気配をうかがっていると、

「おい、別料金取るぞ」

 真柄さんがぴしゃりと言った。すぐに「すまんすまん」と後ろで声がして、

「じゃあ俺も話してみるかな」

 石黒さんがコホンと咳払いした。「いえーい」と汀さんが拍手する。

 勘弁してくれ、と僕はうなだれた。眠気は全くないから寝てやり過ごすこともできないし、ましてや「止めましょう」などと言える立場でもない。言えたとしても今さら「こういうの苦手なんです」などと告白するのはみっともないにもほどがある。

 ぺち、と音がして、

「ちっちゃい頃に読んだ漫画で忘れられへんのがあって」

 石黒さんが語り始めた。

「うどん屋やったと思う。親に連れられて。座敷で注文して待ってる間に、近くの本棚にあった漫画を手に取ってん。赤い表紙で、真ん中にぶよぶよしたゴリラみたいな絵が描かれてて」

「ほほう」

 真柄さんが欠伸混じりに合いの手を入れる。

「タイトルは覚えてへん」

「また?」

 汀さんが突っ込んだ。ぺちん。

「しゃあないやろ、子供やってんから――で、読んだらなんか博士みたいな人が岸壁で、天を仰いで祈ってんねん。海も空も真っ暗で」

「博士が祈るっておかしくない?」

 ぺちん、ぺちん

「祈る時は祈るやろ」石黒さんは煩わしそうに、「不死身の生命を作ろうとして、上手くいかんくて祈っとったんやったかな。そしたら雷がバーンて浜辺に落ちて、腐った魚の死体が動き出して。で、博士が『不死身の生命ができた!』みたいな」

「ご都合主義すぎる」

 ぺちんっ、と一際大きな音がした。

「……おい」

 石黒さんが凄んだ。「さっきから何を要らんことしてんねん」

「は?」汀さんが甲高い声で返す。ぺちんっ、とまた叩く。

「それや、それ」

 不快そうに鼻を鳴らすと、石黒さんは、

「さっきから腕叩いてるやんけ」

「え? 叩いてないよ?」

 ぺちんっ

「……あのなあ」

 不味いぞ、と僕は思った。この流れだと夫婦喧嘩が始まるかもしれない。真柄さんが大きな溜息を吐いた。

「叩いてないって」

 ぺちぺち

「嘘吐けや、ほれ捕まえた」

 がさがさ、と音がして、

「これが証拠や。暗くて見えへんからって調子乗りやがって、おい汀」

 石黒さんが呼んだ。返事がない。僕は肩をすくめて嵐の到来を確信する。

「お前いま叩いたやろ、この手で」

 さらに凄む。しばらくの沈黙の後、

「……イシちゃん」

 汀さんの声がした。奇妙な音程。上ずってもいる。

「なんや」

「わたしの手はほら、ここにあるよ」

 ざりざり、と髭が擦れる音がした。ざりざり、ざりざり。

「ええ? お前、え、何で両手……」

 石黒さんの呆気に取られた声が、尻すぼみになって途絶える。

「あ、あのねイシちゃん」

 汀さんは震える声で、

「いまイシちゃんが摑んでる手って――誰の手?」

 と訊いた。

「ふあっ」

 僕の口からそんな音が漏れていた。背後から凄まじい気配を感じる。ぷつぷつと全身に鳥肌が立ち、冷や汗が体中から一気に流れ出る。

「ごめん、ぜんぶ見えてる」

 真柄さんが苦笑しながらルームミラーを指で弾いた。

「普通に叩いてるやん、汀ちゃんが石黒のこと」

「あっちゃあ」

 汀さんが悔しそうに言った。「計算だと見えてないはずなのに」と呻く。

「ついでに言うと、こそこそ相談してんのも半分くらい聞こえとったで」

「地獄耳やのお」

 石黒さんが舌打ちした。

 僕はこわごわ振り返った。石黒さんと汀さんが寄り添うようにして座っている。二人とも残念そうな、それでいて嬉しそうな顔をしている。そんな二人の様子が助手席からでも見える。暗い中で知らない誰かの手を摑む、という状況がそもそも成立しないわけだ。

「澤口くん」

 にこにこしながら石黒さんが、「わりと引っかかってなかった? 声してたけど」

「いや、どうでしょう」

 僕は曖昧に答えて正面に向き直った。くくく、と真柄さんが忍び笑いを漏らした。恥ずかしさで血が上り、顔が熱くなっているのが分かった。

「……さっき仰ってた漫画ですけど」

 遠くで堀さんが喋っている。

「日野日出志の『恐怖のモンスター』で間違いないかと。ちなみに表紙は黒だったはずです。赤いのはロゴですね」

「うわ、ありがとうございます。メモしとこ」

 石黒さんが楽しげに言った。

「ふわああ」

 またしても真柄さんが欠伸をした。煙草を摑む。

「真柄さん、代わりますよ」

 堀さんが両手を口に当てて、

「自分さっき一瞬落ちてたみたいで、今すごい目が冴えてるんですよ」

「ホンマですか」真柄さんは途中まで引っ張り出していた煙草をケースに戻すと、「じゃあ、お願いしよっかな」と首を回しながら言った。

 湾岸長島パーキングエリアで降りて、トイレを済ませる。真柄さんは眠そうに目を擦りながら「後ろで寝るわ」と最初に車に乗り込んだ。石黒夫妻は変わらず真ん中のシートに座る。

 助手席でシートベルトを締めていると、スマホを手にした堀さんが運転席のドアを開けて乗り込んできた。リュックを足元に置くと、「安全運転で行きますね」と僕に笑いかけた。

 再び伊勢湾岸道に出ると、車の量が増えた気がした。前の車のテールランプが妙に目に沁みる。汀さんが「そろそろ夜景だね」とうきうきした様子で言った。

「石黒さん」

 堀さんが呼んだ。

「自分も一席、やってみてもいいですか。ネームの参考になればと」

「ええんですか? 気持ちはありがたいけど」

 すまなそうに石黒さんが言う。堀さんは「いっこ持ってるんで」と返すと、返事も聞かずに、

「真柄さん」

 わずかに顔を傾けて、後部座席に呼びかけた。

「はいー? 何ですか」

 眠いのを隠さず真柄さんが答える。僕は新たな緊張に襲われながら身構える。

「皆さん聞いてらっしゃいますね。では――一つお尋ねします」

 堀さんはちらりと僕を見やると、爽やかな笑みを浮かべて、

「僕が書籍編集者の堀泰三である、と何を根拠に信じてらっしゃるんですか?」

 と訊いた。

<第6回に続く>

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