吉田兼好『徒然草』あらすじ紹介。暇を持て余して書いた!? 「つれづれなるままに」が意味することは…

文芸・カルチャー

公開日:2023/7/21

徒然草』と言えば、「つれづれなるままに、日暮らし硯(すずり)に向かいて…」という冒頭部分が有名です。教科書にも掲載されている名文ですが、古文で書かれているため、とっつきにくいという印象があるかもしれません。今回は、『徒然草』の有名な一節のあらすじを紹介するとともに、作者・吉田兼好が何を言いたかったかを分かりやすく説明します。

徒然草

『徒然草』の作品解説

『徒然草』は今から約700年前に吉田兼好によって書かれた随筆です。随筆とは、思ったことや経験したこと、見聞きしたことを筆の赴くままに書き記した文章です。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並んで、日本三大随筆の一つと言われる作品で、244の章段で構成されています。

 この随筆の中心にあるのは、「無常観」と言われる思想で、この世の全ては無常であり、仮の姿に過ぎないという考え方のこと。少し難しい思想ですが、それぞれの章段は、時に鋭く時にコミカルな話を交えながら、リズミカルに書かれており、現代の私たちにも心地よい読後感を与えてくれます。人間の生き方や死生観、美意識、恋愛観といった多岐にわたるテーマの随筆を通じて、根底に流れる「無常」という思想を理解することができるかもしれません。

『徒然草』の主な登場人物

吉田兼好:鎌倉・南北朝時代を生きた歌人であり、随筆家。30歳前後で出家し、兼好法師とも呼ばれる。

『徒然草』のあらすじ​​

 序段「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて心にうつりゆく由(よし)なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。」の文意は、「暇を持て余して退屈しのぎに、一日中思い浮かんでくる他愛もないことをとりとめもなく書いていると何となく…」ということだが、最後の「もの狂ほしけれ」についての現代語訳は定まっていない。「狂ったような」「馬鹿馬鹿しいような」という意味であるが、「とりとめもなく書いた馬鹿馬鹿しいもの」という謙遜か、「書いているうちにおかしくなってきた」という気持ちが高ぶった状況か。いずれにしても読み手の心をつかむ一文である。

 第52段「仁和寺(にんなじ)にある法師」では、些細なことを人に聞かずに失敗した僧が登場する。仁和寺にいたある老年の僧が、伊勢・出雲に並ぶ有名な神社である石清水八幡宮を初めて参拝した。山の麓にある寺や神社を参拝したが、目的であった山上の八幡宮の本殿を拝まずに帰ってしまう。後日、友人に「周りは皆なぜか山に登っていたが、自分は八幡宮の参拝が目的であったため山には登らなかった」という滑稽譚である。権威ある寺の僧であるという自尊心が邪魔をしてか、事前に調べたり周囲に聞いたりすることをしなかった僧侶の失敗は、「少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき」、つまり「案内者がいるほうが、失敗は避けられる」と締めくくられている。「邪魔なプライドは捨てよ」という教訓が見えてくる。

 第137段「花は盛りに」では、恋愛の情緒を自然の美になぞらえて論じている。満開の桜や曇りのない満月だけでなく、つぼみのついた梢や散りゆく桜、雨で見えない月を思うことも趣深い。同様に、燃え上がっている時間だけが恋なのではない。逢えない時間に相手を思う時、そして別れてから恋しく思い出す時もまた、恋の味わいなのだ。この世の全ては移ろい、常に変化し、消滅するものであり、これこそが「無常」なのである。この章段で挙げられた「無常の美」の例は現代の私たちにとっても違和感のないものであり、「無常」を腹落ちさせる。

<第85回に続く>

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