倒れた葛城を家まで送ることになった一平。部屋のドアを開けようとすると、隣の部屋から中年の女性が顔を出す/残像②

文芸・カルチャー

公開日:2023/9/29

残像』(伊岡瞬/KADOKAWA)第2回【全4回】

ホームセンターでアルバイトをする堀部一平はある日、後輩の葛城が倒れ、彼を自宅まで送ることに。彼の部屋の隣には3人の女性と小学生の冬馬が住んでおり、一平は葛城を心配した彼女たちと対面する。家族ではない彼女たちの共同生活を奇妙に感じた一平に、冬馬から3人には前科があるという共通点を告げられる。そして物語のもう一つの視点では、政治家の息子・吉井恭一が、自宅に送られてくる送り主不明の不快な写真に苦悩していた。4人はなぜ共同生活をするのか? なぜ恭一に写真が送られてくるのか? サスペンス小説『残像』をお楽しみください。

【30日間無料】Amazonの読み放題をチェック >

【初購入金額がポイント70倍】楽天Kobo電子書籍ストア


残像
『残像』(伊岡瞬/KADOKAWA)

2

 三十分ほどして、一平がストックヤードからの品出しのついでに様子を見に行くと、葛城はベンチに座っていた。

 上半身を起こせたということは、多少痛みが引いたのかもしれない。

「大丈夫ですか」

 一平が声をかけると、力なく微笑んで「そろそろ帰ります」と答えた。そのまま立ち上がろうとするが、ふらついている。どう見ても一人で帰るのは無理そうだ。

 一平は添野を捜して、再度相談しようか迷った。もうよけいなことをするな、という声が記憶の隅から聞こえてくる。そんな心配は社員たちにまかせておけばいい。おれはただのバイトだ。

 あの一件、、、、以来、だれかに親切にしようとすると、心のブレーキがかかるようになってしまった。

 同じく品出しに来た陽介が近寄ってきた。立ち上がりかけてまた座ってしまった葛城を見ながら、どうしたものか相談する。

「おまえ、女子にはまめじゃないが、老人には優しいよな」

 本人は褒めたつもりかもしれないが、後半は強烈な嫌味に聞こえた。

 結局、一平が添野チーフを捜して相談することになった。インカムも貸与されていないので、歩き回って捜すしかない。売り場でみつけて報告を始めると、話の途中で彼女は即断し指示した。

「じゃ、堀部君が家まで付き添ってあげて」

「え?」

 そういうつもりで言ったのではないが、今さら取り消せない。

「今日はもう上がっていいから。悪いけどよろしく。本人、立てるんでしょ」

「そう言ってますが」

「冷たいようだけど、以前からの持病で労災対象じゃないから、タクシー代を会社がもつのは無理。堀部君の交通費はあとで申請して。もし、どうしても歩けそうになかったら、やっぱり救急車ね。その場合は店内放送でわたしを呼び出して」

 普段の添野のことも知っているから、冷酷という印象はない。つまり、これが職場というものなのだろう。

「わかりました。――葛城さんには、家族とかいないんですか」

「履歴書に《知人》の連絡先が書いてあるけど、いつも本人が拒否するのよ。だけど、さすがに救急車を呼ぶことになったら、その人に連絡する」

「わかりました」

「定時まで時間給つけるから、お願いね」

 人差し指を軽く立てて、またどこかへ去った。戦場の指揮官でも務まりそうだ。

 あまり気乗りがしなかったが、アルバイトを統括する立場の社員にあそこまで言われては、嫌といえない。

 一緒に帰りましょうと声をかけると、葛城は力なく手を振って辞退した。

「結構ですから、ひとりで帰れますから」

 それでも無理やり一緒に帰ることにした。

 陽介に簡単に事情を説明すると「頑張れよ」と励ましてくれた。私物置き場へ行き、自分のリュックを背負い、葛城の黒いリュックを手に持ってやる。

 ホームセンター前にバス停がある。そこからバスで十二、三分、駅前の終点で降りる。

 一平の自宅からの最寄り駅でもある。都営地下鉄で東京都の東の端に位置し、江戸川を越えて一つ先の駅はもう千葉県だ。

 一平の家は駅から南へ十分ほど歩いたところだが、葛城のアパートは北へ同じく十分ほどだと言う。近くてよかったと、心のどこかで思ってしまう。

「タクシーに乗りましょう」

 葛城はかたくなに「歩きます」と言い張ったが、これだけは一平が通した。代金は、添野がつけてくれるという時給を充てるつもりだ。

 約一キロの初乗り運賃の距離で目的地に着いた。四百十円だ。乗るとか乗らないとか、どちらが出すとかもめるのが悲しい金額だ。

 葛城が指示するとおりに進み、全体が古びた印象の住宅街の、狭いT字路を折れた。二台の車がすれ違うのもきつそうな細い道で、葛城が「ここです」と言った。

 料金を払ってタクシーから降りた。葛城を支えてやる。雨はもう止んでいた。雲間からのぞいた五月の太陽が、濡れた路面の窪みに乱反射する。そのまぶしさがなんとなく不安な印象を与える。

「あそこです」

 葛城が指さす先、私道と思われる細い路地の突き当りに、昔の映画にでも出てきそうな古びた一軒のアパートがあった。

 アパートの建つ敷地は、意外に広かった。ただし、ずいぶんと荒れた印象だ。そこらじゅうに雑草が生え、手入れもされていない樹木が、二階の屋根に届きそうだ。

 木造モルタルのかなり築年数が古そうな建物は、不自然に敷地の片側に寄って建っている。昔はもう一棟あったのかもしれない。それを取り壊したかなにかして、更地のまま放置しているように見える。

 敷地全体は、一平の腰ほどの高さの苔むしたブロックで囲まれていた。塗装が剝げ錆が浮いた鉄製の門もかなり旧式だ。『ルソラル』でバイトをするようになって名前を覚えたのだが、『アーム錠』と呼ばれる形式で、「錠」と名はついているものの、ノブをただ半回転させるだけなので、鍵としての機能はない。

 そのアーム錠を回して門扉を押し開けると、ぎいっと神経に障る金属音が響いた。

 アパートの壁にへばりつくように、錆びた鉄製の外階段があり、その脇に集合ポストが見える。建物は奥に延びる形で一階と二階に三室ずつ並んでいるようだ。まさに昔ながらの「○○荘」という印象だ。

 そう思ったら、壁のこちらから見える場所に、ペンキでやたら画数の多い名前が書いてある。読めない。かすれているというのもあるが、漢字そのものが読めない。あとで写真を撮って調べよう――。

 そんな考えが顔に出たのだろうか。それまでほとんど口を開かなかった葛城が「ひこばえそう、と読みます」と言った。

「あ、『ひこばえ』ですか」

 そう言われてみると、漢字一文字の下にやや小さく《ひこばえ》と振ってある。しかし、意味がわからないことに変わりはない。

「部屋はどこですか」

「一階の一番奥です。一〇三号室」

「ここまで来たんですから、ドアの前まで送り届けます」

「申し訳ない」

 一〇一、一〇二と通り過ぎるが、表札らしきものは出ていない。ドア付近にも生活感はなく、無人なのか有人なのかの判断すらつかない。

 一〇三号室の前に立つ。ドアに貼られた名刺ほどの大きさの厚紙に『葛城』とだけ手書きしてある。これが表札の代わりだろう。

 葛城が、受け取った自分のリュックから鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込んだそのとき、たった今、前を通り過ぎた一〇二号室のドアが開いた。住人がいたのだ。

「あれ、ナオさん。早いじゃない。まだ料理は――」

 そう言いながら、半分ほど開けたドア越しに中年の女が顔をのぞかせた。暢気そうだった表情が、一平の顔を見るなり強ばった。

「あんた――」

 一平に向かって何か言いかけた言葉を途中で飲み込み、葛城に視線を戻す。

「ナオさん。また具合悪いの?」

 サンダルをつっかけて通路に出て来た。大胆な花柄のニットにカラシ色のパンツという上下に、真っ青な地に鮮やかな熱帯魚の描かれたエプロンをつけている。渋谷の人ごみにいても、すぐに見つけられそうな派手ないでたちだ。主婦だろうか。少なくとも、このアパートの雰囲気には似合わない。一緒に煮物らしい匂いも漂い出てきて、急に空腹を感じ、小さく腹が鳴った。

「ちょっとだけ」

 片手にドアのノブを握ったまま、葛城が答えた。

 ナオさん、とは葛城の呼び名らしい。そういえば下の名は「直之」だった。

「大丈夫?」

「うん。彼について来てもらったから」

「おたく――ええと、どちらさん?」

 ここでようやく女が一平に尋ねた。さっき一平の顔を見て何か言いかけたのは、だれかと見間違えたのだろう。

 一平は、女の顔を正面から見て、とっさに日本人形を連想した。色白で、目や鼻や口がどれも小ぶりな造りだ。髪形もきっちり切りそろえたボブだから、もしかすると本人も意識しているのかもしれない。それにしては、服装の派手さとは釣り合いがとれていない印象だ。そのミスマッチぶりのせいか、どこか艶っぽい雰囲気もある。

 年代は、一平の母親よりやや下、四十を少し超えたあたりかもしれない。ただ、しっかり化粧をしているので、断言はできない。

「葛城さんと同じ店でバイトしてます。堀部といいます」軽く頭を下げた。

「ああ、なんだっけ。ええと、ミソラとかいうホームセンター」

「ルソラルです」

「ああ、たしかそんな名前ね。――学生さん?」

「はあ、そうです」正確には浪人中です、と訂正する必要もないだろう。

「ありがとう。助かりました」

 二人のやりとりに割り込んで、葛城は深々と頭を下げて玄関に入って行った。

「ねえ。もしかして、ここ?」

 女が、エプロンに描かれたクマノミの上から、胃のあたりをさすった。

「そうみたいです」

 この場にいると、さらにあれこれ聞かれそうな気がしてきた。無事送り届けたことでもあるし、そろそろ帰ることにする。

 葛城にひと言かけるために、わずかに開いているドアの隙間を広げ、頭を突っ込んだ。狭い玄関を入ってすぐ脇が狭い台所になっていて、葛城はシンクで手を洗っている。

「それじゃあ葛城さん、おれ、これで帰りますから。それと、添野チーフが――」

 ふいに、耳元に温かい息を感じた。振り向くと、三十センチもないところに女の顔があった。

「うわ」

 思わずのけぞる。のけぞった勢いで、ドアに後頭部をぶつけた。

「あ痛てっ」

 いつのまに忍び寄ったのか、女が一平の肩越しに部屋の中をのぞこうとしていたのだ。

「こっちこそ、うわー、よ。もう少しで口づけするところだったじゃない」

 友達に対するような馴れ馴れしい口調だ。

 なんだ、この人は――。

 顔つきは純和風だが、中身はあけすけというかラテン系のようだ。もっとも、ラテン系の知人はいないが。

 一平がドアの外へ身を引くと、女はするりと脇を抜けて玄関から上がり込んでしまった。何をするのかと見ていると、女は葛城を座らせて、何か声をかけ、コップに水を汲んだりしている。親しそうだ。これならまかせて大丈夫そうだ。さっさと帰ろう。

 ドアを閉めようとしたとき、後ろから肩をぽんと叩かれた。

「うわっ」

 また驚いて振り返ると、別の女が立っていた。和風ラテン系の女が出てきた一〇二号室のドアが半分ほど開いているから、一緒にいたのかもしれない。

「ナオさん、どうかしたの?」

 女は、わずかに眉間に皺を寄せて一平に聞いた。ほんのりと、柑橘系の香りが漂った。

「あ、ええと」

 質問の中身などどこかへ飛んで、見とれてしまった。

 齢は三十歳くらいだろうか。背は一平より少し低いぐらい。肩より少し長めの髪を、無造作にポニーテールにまとめている。ほとんどすっぴんではないかと思うほど化粧は薄いが、それでも目を引く美人だ。なんとなく猫を連想させる目が印象的だ。

 どこかで会ったような気がするが、思い出せない。とにかく、率直に綺麗な人だな、という感想しかない。もしかすると、何かの撮影でもやっていて、この人がモデルか女優で、さっきの女がマネージャーだろうか。

「ねえ、聞いてるんだけど」

 ネコ科の目で睨まれた。あまりきちんと手入れされていない眉が野性的で、それもまた似合っている。映画に出てくる凄腕の暗殺者アサシンというイメージだ。

「あ、あの、胃の」

 息がかかりそうなほど近くに顔があって、ついしどろもどろになった。

「アノイノ?」

「例の胃痙攣みたいよ」

 先に入った女が、葛城の部屋のドアから顔をのぞかせて代わりに答えた。続けて「ねえ薬はどこだっけ」と訊く。

「たしか、カラーボックスの一番上の段だったと思うけど、手伝おうか?」

 そう言いながら美貌の暗殺者アサシンも、一平の脇を抜けて部屋に入っていった。

 さっさと帰ろうとしたのも忘れて、ぼんやり立っていると、背後からサンダルを引きずる音が聞こえた。

 また一人、一〇二号室から女が出てきた。三人目だ。やはり、何かやっていたのは間違いない。

 三番目の女は無言だった。上下ともかなり着込んで型のくずれたスウェットを着て、ショートボブほどの長さの髪が乱れている。「くしゃくしゃ風ボブ」などという洒落たものではなく、ただの寝癖のようだ。今までの中では一番若そうで、一平と同い年くらいに見える。

 この女はひどく痩せていて、もともと大きそうな瞳が、さらに目立っていた。どことなく、怯えた草食動物を連想させる顔立ちだ。化粧っ気はまったくない。同世代の女性の完全な〝すっぴん〞を見る機会などないので、さっきと別の意味でどきどきした。

 彼女は、まるで一平が葛城に害を与えたとでも言わんばかりに、怯えた目でみつめてから、ドアが開いたままの一〇三号室の中へ声をかけた。

「なに?」

 見た目とはギャップのある、ぶっきらぼうな言いかただ。

 二人目の女のものらしい、ややハスキーな声が答える。

「今日は、胃痙攣みたい」

「それ、痛い?」寝癖の草食女が、髪のはねを押さえながら訊く。

「痛いよ、かなり痛い。わたしも昔なったことがある。泣きたくなる」

「やだ」

 やりとりを聞きながら時刻を確認する。午後五時三分。定時は過ぎている。堂々と帰れる。

 しかし、と迷った。正直をいえば、二人目の女には興味を引かれていた。十歳ぐらいは年上かもしれないが、そんなことは気にならない。あの美貌とクールな雰囲気には、いままであまり出会ったことがない魅力を感じる。

 ここで退去したらおそらく二度と会えないだろう。それはなんとなく心残りだ。それに、もし芸能人だったら、陽介に自慢できる。本物の暗殺者アサシンだったら、もっと自慢できる。少し怖いが。

 中途半端に開いたドアの前に立ってぐずぐずしていると、和風ラテン系の女が顔をのぞかせた。

「ねえ。そこの坊や、ちょっと待ってて」

「え」

 反射的に身を引こうとしたとき、ぐずぐずしていた理由が視角の外からすっと現れて、一平の手首を摑んだ。

「少しだけ、待って」

 ひんやりとした声と手で、指は細いが力強かった。

「はい」と答えていた。

<第3回に続く>

本作品をAmazonで読む >

あわせて読みたい