心臓に汚れがあると怪物に食われてしまう試験!? 死者の審判を受けようとするミイラの男には不安が…/ファラオの密室④

文芸・カルチャー

更新日:2024/1/19

ファラオの密室』(白川尚史/宝島社)第4回【全7回】

舞台は、紀元前1300年代前半、古代エジプト。死んでミイラにされた神官のセティが、心臓に欠けがあったために冥界の審判を受けることができず期限付きで地上への復活を許されたタイミングで、地上では前代未聞の大事件が起きていた。なんと、ピラミッドの密室に保管されていたはずの先王のミイラが、棺の中から消えていたのだ…。これはエジプト全体を揺るがす事態だった。
2024年・第22回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作の『ファラオの密室』は、タイムリミットが刻々と迫るなか、地上に復活した神官セティが、エジプトを救うため、ミイラ消失事件の真相に挑むミステリー小説です。

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ファラオの密室
『ファラオの密室』(白川尚史/宝島社)

第一章 死者への試練

王が即位したとき、南はエレファンティネから北はデルタ地方に至るまで、神々の神殿は荒廃し、草の生い茂る丘となり、建物はもともとなかったかのようで、人々が勝手に動き回る場となっていた。神々はこの国を見捨て、祈りも聞き届けられなかった。

――カルナック神殿、ツタンカーメンの信仰復興碑

1

 見上げた黒い空に、太陽が滲んでいた。

 仰向けに横たわった体が、一定の間隔で揺られている。誰かの手で、運ばれているのだろうか――いや、違う。耳元から、跳ねる水音が聞こえてくる。

 セティは起き上がろうとしたところで、自らが蓋のない箱に横たわっていることに気づく。箱は上下も左右も体とほぼ同じ大きさで、隙間を埋めるようにじゃらじゃらとした小物が詰まっているようだ。それを手で払い除け、箱の縁を摑み、上体を起こす。

 あたりを見回すと、果たしてそこは川の上だった。両岸はともに遠く、暗いのも相まって様子は判然としない。だが、この川幅はナイル以外にありえない。

 箱から出て、船に降り立った。パピルスを編み樹脂を塗った、どこにでもある一人用の小舟だ。セティと箱以外に荷はないようだった。周囲にほかの船の姿もなく、見るともなしに空を見上げる。

 空は漆黒に塗りつぶされていた。かといって星は見えず、真っ白な太陽がただ一つ、ぽつんと浮かんでいる。しかし、違和感があった。その太陽は、真円ではなく少しいびつで、縁がゆらゆらと揺らめいているように見える。

 さらに目を凝らすと、太陽から、なにかが生えているのがわかった。

 ――それは、無数の腕だった。

 太陽から伸びた何本もの真っ白い腕が、触手のように蠢いていた。それらはどこか、ひっくり返した虫の脚の動きを連想させる。独立したそれぞれの腕が、なにかを摑もうとするかのように不規則にもがいていて、薄気味の悪さに背筋が寒くなる。

 思わず目を逸らし、足元を見下ろした。箱の外側には聖刻文字ヒエログリフが刻まれている。その内容はすぐにわかった。セティが普段から慣れ親しんでいる、死者の書に著される『四十二の否定告白』だ。

 それで、その箱が棺だとわかった。

 同時にようやく、今の状況を理解する。

 セティはナイル川を、現世から冥界へと渡っているのだ。

 

 小舟はゆっくりと、一方の岸へと近づいていく。セティは舟に座り、自分の体を検めた。

 セティの体の様子は、生前と明らかに異なっている。呼吸はたんなる習慣のようで、どれだけ息を止めても苦しくない。空腹も感じない。さらに大きな違いとして、腰から下がまるごと、木でできた義肢や義体に替わっていた。とはいえそれは、もともと自分の体の一部であったかのように自由に動いた。目で見て手で触れなければ気づかなかったほどだ。

 それ以外にも違いはあった。砂を嚙んですり減っていた歯は、おそらく花崗岩であろう、すべすべとした差し歯に替わっていたし、右の腹には一度切開して縫った痕があった。水面に顔を映すと、灰色の目は、少し赤みがかったところも含めて生前とそっくりだったが、よく見ればそれは精巧な義眼であった。肩まで伸ばした黒髪も、さらさらと揺れている。

 下半身はともかく、差し歯や義眼、腹の縫い痕はミイラの特徴だ。おそらく今のセティは、死によって体を離れたバーが再びセティの肉体へと戻り、冥界に渡っている最中なのだろう。初めての経験ではあるが、もとよりミイラはそのために作るものであるので、特段の驚きはない。

 ――だが、自分はいつ、なぜ死んだのか。

 セティは心臓イブに手を当てて考えるが、死の瞬間の記憶はなかった。ここ最近――少なくとも覚えている限りは、先王アクエンアテンの葬送の儀に向けて、王墓の内壁に呪文を刻むという大仕事に掛かりきりであった。最後の記憶も玄室に入ろうとしたところで終わっていて、そのあとはなにも思い出せない。死の直前の記憶は、なんらかの理由で失われてしまうのだろうか。

 ともあれ、失われているのが下半身でよかったとセティは思う。もし心臓を失っていたら、思考すらもできない骸になっていたところだ。当然、冥界での生は得られず、セティという存在はそこで永遠に終わってしまう。

 それにしても、とセティはゆっくりと腹の傷痕を撫でる。惚れ惚れするような、見事な縫い痕だった。エジプト全土広しといえど、これだけの腕を持つミイラ職人はひとりしかいない。これは無二の親友、タレクの為業に違いなかった。

 そのことが嬉しく、だが同時に、先立ってしまったことを申し訳なく思う。いつか再会したときには、謝らなければならないだろう。

 とはいえ、友にまた会うためには、この先の試練を潜り抜けなければならない。

 死者の審判――。

 真実を司る女神マアトが、冥界を訪れた死者に課す試練である。死者の心臓を秤の一方に、もう一方には真実を象徴する〝マアトの羽根〞を載せる。

 心臓と羽根が釣り合えば、その心臓は汚れなきものである。罪なき者は楽園であるイアルの野へと迎え入れられ、永遠の生を得る。一方、心臓が羽根より重い場合、心臓が罪に汚れて重くなっていることが暴かれる。心臓はアメミットという怪物に食われ、その者は永遠に復活できない。

 生命を象る〝𓋹アンク〞は、イアルの野への鍵でもあった。新王であるトゥトアンクアテン、すなわち生けるアンクアテンの化身トウトという名前の一部にもなっており、生者は死者の無事を願い、アンクを必ず副葬する。当然、セティの棺にも入っていた。セティは自らのそれを首にかけ、強く握りしめる。

 だが、死者の審判が近づくにつれ、セティの不安は増すばかりであった。

 ――世を欺き続けた私の心臓は、果たして羽根と釣り合うのだろうか。

<第5回に続く>

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