心臓に欠けがあったミイラの末路。無限の時を苦しむリスクを承知で、地上への期限付き復活が許される/ファラオの密室⑦

文芸・カルチャー

更新日:2024/1/19

ファラオの密室』(白川尚史/宝島社)第7回【全7回】

舞台は、紀元前1300年代前半、古代エジプト。死んでミイラにされた神官のセティが、心臓に欠けがあったために冥界の審判を受けることができず期限付きで地上への復活を許されたタイミングで、地上では前代未聞の大事件が起きていた。なんと、ピラミッドの密室に保管されていたはずの先王のミイラが、棺の中から消えていたのだ…。これはエジプト全体を揺るがす事態だった。
2024年・第22回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作の『ファラオの密室』は、タイムリミットが刻々と迫るなか、地上に復活した神官セティが、エジプトを救うため、ミイラ消失事件の真相に挑むミステリー小説です。

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ファラオの密室
『ファラオの密室』(白川尚史/宝島社)

3

 気詰まりな静寂が広間に満ちる。ネフェルは数分も経たずに戻ってきた。人をひとり始末してきたというのに、無表情のまま、その手も衣服もまっさらで、血の汚れは見当たらなかった。

「……さて、次はお前か」

 マアトの声に応じて、セティは立ち上がり、演台へと向かった。先ほどまでウセムトが立っていた場所だ。ここに立つのは――ベンチで後ろから見ているのと、なにもかもが違う。儀礼や祭祀に慣れているセティでさえ、マアトの神々しさと相対すると、顔が紅潮し、息が荒くなるのを抑えきれなかった。

「死者よ。まずは、名を聞こう」

「書記長イセシの子、セティと申します。神官書記に席を得てからは八年勤めております――いえ、勤めておりました」

 マアトは無表情で頷いた。真実を司る神だ、あらためてセティがなにかを言うまでもなく、すべて承知のことだろう。

「それでは、始めよう。――我、真実を司る神、マアトが問う。死者セティよ。お前は噓をついたことがあるか」

「汝、背を逆しまにして現れる炎よ。我は――」

 セティの言葉はそこで止まった。マアトは沈黙を保っている。セティは、その先を続けようとする。

「我は……」

 だが、先の言葉が出てこない。

 マアトはじっとセティを見下ろしている。

 法廷に、静寂が満ちた。

 ややあって、マアトが口を開いた。

「……もうよい。ネフェル、その者の心臓をここに」

 四十二あるはずの否定告白、それが最初の一つで終わったことが、なにを意味するか。

 セティは己の体が震えはじめるのを感じた。

 ネフェルがセティから心臓を抜き取り、マアトに献上する。

 マアトはそれを手に取ると、秤に置くことはなく、目の前に掲げてしげしげと眺めた。

 永遠に感じられるような沈黙。そして、マアトが口を開く。

「セティよ。お前の心臓だが――」

 マアトはそこで言葉を切ると、心臓からセティの顔へと視線を移して続けた。

「――お前の心臓は、欠けている。このままでは、秤にかけられぬ」

 予想外の言葉に、セティは目を見開く。

「心臓に、欠け……ですか?」

「わずかではあるがな。記憶にも欠落があるのではないか?」そう言って、マアトは心臓に再び目を落とした。「いずれにせよ、欠けがある心臓は秤にかけられぬ。このままアメミットに食わせるしかなかろう」

「そんな……」セティは声を震わせた。「マアト様、お助けください。審判の機会を、なにとぞ」

「いや、だが、もう一つ妙なことがある。どうやらお前は、まだここに来るべき者ではないようだ」

「それは……どういう意味でしょうか」

 マアトは心臓を矯めつ眇めつ、続けた。

「お前はたしかに死んでいる。だが、心臓イブに、わずかながら生命力カーが残っているようだ」

 死者に、生命力カーが残っている――それは、ありえないことだ。もはや、事態はセティの理解を超越していた。黙ったまま行く末を見守っていると、マアトは思案の末、ぽつりとつぶやく。

「セティよ。本来欠けのある心臓はどうしようもないのだが、幸いお前には生命力カーが残っている。現世に戻って、心臓の欠片を探してきてはどうだ」

「そんなことが、できるのでしょうか」

生命力カーがある限り、現世には留まれるだろう。だが、そう長くはない。うまくいくかはお前次第だ」

「しかし、探すといっても、どうすれば……」

 マアトはネフェルに心臓を手渡した。戻ってきたネフェルによって、セティは心臓を体に戻される。セティは胸に手を当て、心臓の拍動を確かめた。

「現世に戻れるのは、三日が限度だろうな」マアトは言った。「ミイラの肉体に生命力カーは馴染まぬ。食物から新たに得ることもできぬ。生命力カーが尽きればバーとの結びつきが解けるだろう。それまでには、必ず自分の棺に戻るがよい」

「もし間に合わず、生命力カーが尽きてしまったら、どうなるのですか」

 セティの問いに、マアトは無表情のまま小さく首を振った。

「お前の肉体と魂は、完全に分離する。現世にも冥界にも行けず、魂だけの存在として、永劫の時をさまよい続けることになるだろう。そうなったら我にも、どうにもできぬ」

 ――なんとも恐ろしい話だ。無限の時を苦しみ続けるのに比べたら、怪物に食べられるほうがまだマシなようにすら思えた。

「さて、どうする? 現世に戻って心臓の欠片を探すか、あるいは、その身をアメミットに捧げるか。好きに選ぶがよい」

「私は……」

 セティは迷った。だが、自分はこのままでは助からないということだけはたしかだった。可能性があるならば、それがわずかでも、すがりつくしかない。

「……現世に行き、心臓を探します」

「では、行くがいい。お前に残された時間は今日を含め三日、明後日の夜までだ。くれぐれも忘れるなよ」

 セティは神殿を出ると砂漠を引き返し、ナイルの岸辺へと向かった。

 岸辺に着くとすぐに、先ほど固定した小舟が見つかる。乗りこむと、水草を数本束ねて櫂として、セティは川の向こう岸へと漕ぎだした。

 漕ぎ続けるうち、意識が朦朧としはじめた。手を止めても、小舟は減速せず、川に流されもせず、滑るように向こう岸へと向かっていく。

 やがて、セティは棺の中に体を横たえ、眠りに落ちた。

<続きは本書でお楽しみください>

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