【連載】『小説 最後の恋』第2回 中嶋ユキノ×蒼井ブルー

文芸・カルチャー

更新日:2018/10/2

 10月10日に3枚目のオリジナルアルバム『Gradation in Love』をリリースする、シンガーソングライターの中嶋ユキノさんと、ツイートをまとめたエッセイ『僕の隣で勝手に幸せになってください』をはじめベストセラーを連発する、文筆家・写真家の蒼井ブルーさんがコラボレーション。『Gradation in Love』に収録される楽曲“最後の恋”をテーマに、蒼井ブルーさんが書き下ろした『小説 最後の恋』をお届けします。さらに、この書き下ろし小説のストーリーとリンクした、“最後の恋”のMVを制作(10月に公開予定)。どのような物語が展開されるのか、ぜひ確かめてみてください。

 私のInstagramはリアルな友人のみでつながっている鍵つきアカウントで、「いいね」は半ば「既読」のような使い方になってしまっているのだが、色彩のたまごサンドの投稿は過去最高数のそれを獲得し、「場所教えて」や「一緒に行きたい」といったコメントも多数ついた。

 すすめたものに対する反応がよいと気分が上がる。まるで自分までもが評価された気になる。ネットレビューはもう、ひとつの文化だ。

 そうして私は案内人となり、週替りでさまざまな人々を色彩へと導いた。日曜のランチがたまごサンド一択になった。しかし飽きてしまうようなことはなかった。いや、それどころか、味や居心地のよさにますます惹かれていったのである。

 色彩が私のお気に入りの店になった。

 インスタ女子会で訪れた最初の日と同じ、日曜のランチどきという設定をかたくなに守っているにもかかわらず、あれ以来あの人に会うことはなかった。店員の姿をし、店員としてのサービスを提供しながらも、仲間内から「正式ではない」などと称されていたあの人だ。

 正直なところ顔もぼんやりとしか思い出せず、街ですれ違っても気がつかない自信がある。しかし私は、妙にあの人のことが気になっていた。恋心などではなく、好意とまでも呼べない、まだうまく説明できない段階ではあったが。

 店に入ると私は、まず最初に彼がいるかどうかを目で捜すようになっていった。胸の中の「気になる」が、日曜ごとに少しずつ、しかし確実に育まれていった。

 もしかするとそれは、焦らしから来るものだったのかもしれない。

 女子向けの恋愛指南には、必ずと言っていいほど焦らしテクニックが紹介されている。すぐに返信するな、すぐに会うな、すぐにOKするな、すぐに寝るな……あなたがウェルカムな気持ちであればあるほど、まずはひと呼吸置け、というのである。

 それを裏付けるかのように、あるとき読んだ記事には漁師のおじさんの言葉が、さも名言のような扱いで掲載されていた。

「魚っていうのはね、すぐにあげようとしちゃだめ。かかった瞬間がいちばん逃げられやすいの」

 新鮮な魚を届けてくれる漁師の皆さんには心から感謝しているが、しかしこのおじさんに、私たち乙女の恋愛の何がわかるというのだろう。

 釣りの知識や経験が本当に役立つというのなら、女子向けのツアーやイベントが盛んに組まれていてもよいはずだ。そのような金脈を旅行会社や広告代理店が放っておくはずもない。

「えー、今回使用する釣り糸は、皆さんの恋愛成就を祈願しまして、特製の赤い糸になっております。えー、皆さんは運命というものを信じますか?」

 ガイド役のせりふを想像して、やはり私には合わなそうだと思った。

 あの日、あの人は確かに、「よかったらまた来てくださいね」と言った。

 あれから3カ月ほどが経ち、正式ではない店員の存在が、私の「ここ」へと通う理由のひとつになっていた。

「いらっしゃい。あれ、今日はひとり?」

 顔の濃いイケメン店員の案内を制するようにして、カウンター内から声が飛んで来た。店長だ。

「あ、はい。なんか、友だちが来れなくなっちゃったみたいで」

「あらあら。えーっと、じゃあ、よかったらこっちに座ってみる? 実はこっちの方がおすすめなんだよね」

 店長は、にっと笑って私にカウンター席をすすめた。言葉を交わしたのはインスタ女子会の日以来2度目だった。クマのような風貌のおじさん。

 クマという生き物は本来とても凶暴な性質を持っているはずだが、体が大きくてやさしそうな人がみんなクマに思えてくるのはなぜなのだろう。もしかするとすべてはプーさんのせいなのかもしれない。いや、功績と呼ぶ方がふさわしいのか。

 カウンター席――。いつもは連れがいるし、何より光が命の窓際主義だし、その選択肢はこれまで考えたこともなかった。それに、大きくない飲食店では常連客が占めているイメージがあって、私はそういった雰囲気がどこか苦手だった。

 席に着いて驚いたのは、椅子やカウンターの質がテーブル席のそれと比べてさらによかったことだ。ああ、なるほどと思った。これは確かにひとりでも座りに来たくなるかもしれない。

「うれしいなあ。うちって若い女の子のお客さんがそんなに多いわけじゃないから、よく来てくれて喜んでたんだよね。あ、変な意味じゃないよ? ははは。ご注文は? いつものでいい?」

 私は、たとえなじみの店であっても「いつもの」などと注文するようなかっこをつけた大人にはなりたくなかった。しかし、なんだろう、この気持ちのよさは。他の客たちに対する優越感だろうか。

「よく来てくれるお客さんには名前を訊くんだけど、いいのかな? 訊いても」

 私の「いつもの」であるアイスカフェラテをカウンター越しから提供しながら、店長がまた、にっと笑う。

「七海です。七つの海って書いて、七海」

「お、七海ちゃんか、いい名前だね。時代が時代だったら海賊王だよ」

「なんですか、それ」

「あっ、そうか。ナミって、もしかして七海って意味なのかな。ほら、ワンピースの」

「すいません、ワンピースあんまり知らなくて」

「ははは、ごめんごめん、いきなり変なこと言っちゃって」

 正式ではない店員の姿はこの日もなかった。

「……あの、前にいた人ってもう辞めちゃったんですか?」

 3カ月ほどに渡って焦らされていたにせよ、ひとりでカウンター席にでも座らなければ、こうやってまっすぐに訊けることもなかったと思う。

「前にいた人? うちに? えーっと、どの子だろう」

「私が初めてここに来たときにいた人なんですけど。正式ではない店員さんだって聞きました」

「正式ではない店員? なんだそれ。んー、七海ちゃんが初めて来てくれたのって2、3カ月くらい前だよね? 誰だろう……あっ、もしかしてさ、須田くんのことかな? 彼が帰るときになんか話してなかったっけ、七海ちゃんがいた席のところで」

「そう! そうです! へえ、須田くんっていうんだ、あの人」

 へえ、須田くんっていうんだ、あの人、の部分を声に出して言ったつもりはなかったのだが、心の声というものは、ある一定の熱量を超えると表に出てしまうらしい。

「あー、はいはい、なるほど、そういうことね。彼になんか用だった? もしあれだったら今から来れないか連絡してみようか?」

「えっ、まだここで働いてるんですか?」

 私がそう言うと店長は大げさに顔を背け、それこそ海賊のように、がはは、と笑い声を上げた。気にかけてくれたのかどうかはわからないが、顔を背けてくれたおかげで、調理途中だった私のたまごサンドはクマの唾液の飛散を免れた。

「いや、ごめんね、笑っちゃって。えーっと、須田くんはね、まだ働いてるっていうか――」

 たまごサンドをカウンター越しから提供しながら、店長が続ける。

「彼、店員じゃなくて、お客さんなのよ。で、あの日は僕が買い出しに行くちょっとの間だけ店番を頼んだんだよね。ほんとはだめなんだけど、そういうの。でも暇だって言うし、大体のお客さんたちとも顔見知りだし、ついお願いしちゃって。なんだかんだで彼がいちばん古いかなあ、オープン当初から通ってくれてる常連さんだよ」

 正式ではない店員の正体は、一時的に店番を押しつけられた客だった。いくら常連客とはいえ、どおりで会えないわけだ。

 そして、「あの人は店番を任されている常連客です」とは言わず、「正式な店員でもありませんで」などと、あえて曖昧に表現した顔の濃いイケメン店員のことを、店の体裁を保ついい人材だと思った。

「最近はちょっとご無沙汰だけど、言ったら来るんじゃないかなあ。須田くんも好きなんだよね、たまごサンド」

「いらっしゃいませ、カウンター席へどうぞ」

 背後から顔の濃いイケメン店員の接客が聞こえてきて、「お好きな席へどうぞ」じゃないんだ、と思った。

「あらあら、いらっしゃい」

 店長がそう言ったのとほぼ同時、私のふたつ隣の席に客が勢いよく座った。

「いやあ、仕事がクソ忙しくてバタバタしちゃってました。まあ、ありがたいことなんですけどね。店長、俺、いつもので」

 カウンター席はやはり常連客たちのもので、私が座るにはまだ早いような気がした。

「あっ、ああっ! ですよね? そうですよね?」

 座ったばかりだったふたつ隣の客が私のすぐ隣へ移動し、こちらを覗き込むようにして言った。

 記憶のピントがジリリと音を立て、ぼんやりとしていた輪郭を濃くしてゆく。やわらかな笑顔がこちらを見つめていた。この人のことをほとんど何も知らないというのに、懐かしさすら覚えた。ああ、この顔だ。私は、この笑顔を捜していたのだ。

第3回に続く

第1回はこちら

●中嶋ユキノ/Yukino Nakajima
浜田省吾のアルバムにフィーチャリングボーカリストとして参加したのをきっかけに2016年に浜田省吾プロデュースでメジャーデビュー。シンガーソングライターとしての活動の傍ら、数々のアーティストのライブのバックコーラスやレコーディングコーラスも手掛け、作詞提供など作家としても活躍中。今回のコラボレーション企画のテーマとなっている「最後の恋」は、10月10日リリースのアルバム「Gradation in Love」に収録。現在アルバムの発売に先駆けて配信中。
・オフィシャルサイト:http://nakajimayukino.com/
・「最後の恋」先行配信:https://NakajimaYukino.lnk.to/saigonokoi



●蒼井ブルー
大阪府生まれ。文筆家・写真家。写真家として活動していた2009年、Twitterにて日々のできごとや気づきを投稿し始める。ときに鋭く、ときにあたたかく、ときにユーモラスに綴られるそれは徐々に評判となり、2015年には初著書となるエッセイ『僕の隣で勝手に幸せになってください』(KADOKAWA)を刊行、ベストセラーになる。以降、書籍・雑誌コラム・広告コピーなど、文筆家としても活躍の場を広げている。
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