史上初! 平壌郊外の殺人ミステリー。妻の自殺と、夫の殺害・娘の強姦事件に関連は?/ 松岡圭祐『出身成分』⑤

文芸・カルチャー

2019/8/21

貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である――。史上初、平壌郊外での殺人事件を描くミステリ文芸!主人公のクム・アンサノは北朝鮮の警察組織である人民保安省の保安署員。ある日、11年前に起こった凶悪事件の再調査を命じられるが、過去の捜査のあまりのずさんさにショックを受ける。「万能鑑定士Q」シリーズの松岡圭祐による衝撃の社会派ミステリ長編。

『出身成分』(松岡圭祐/KADOKAWA)

 デウィが眉をひそめた。「それもご存じなかったんですか」

 軽いめまいすらおぼえる。資料に記載漏れが多すぎる。いやウンギョの自殺に関し、署内のどこかに、やはり紙一枚の記録ぐらいは残されているだろう。だがのちに発生した夫の殺人事件と関連づけるシステムがない。

 国家保衛省は人民の思想に目を光らせるものの、生存か死亡かに関心を持たない。治安を司る人民保安省も同様だった。事件絡みなら保安署が把握しているはずが、ずさんなかぎりだ。あるていど覚悟していたこととはいえ、あまりの惨状に言葉もない。

 吹きつける風に、裸木が葉のない枝をすりあわせる。デウィがペク家を眺めながらつぶやいた。「塀はあの家屋の裏まで、ぐるりと囲んでたんです。完全に袋小路だったが、彼女はそこで首を吊った。軒先に突きだした梁に紐をくくりつけてね。チョヒが学校に行ってるあいだに発見されたのが、まだ幸いだったかもしれません」

「でも下校後、母の死を知らされたでしょう」

「もちろんです。あまりに辛いできごとでした」

「家ごと塀で隔離されてしまったのが、ウンギョの傷心につながったんでしょうか」

「遺書が見つからなかったので、そこはなんとも」

「夫のグァンホにとっても、悔やまれることだったでしょうね」

「ええ。絶えず自責の念に駆られていたようでした。しかし彼は喪に服しているあいだも、国営工場への通勤を欠かさなかったし、人民班の仕事もこなしてました。悲しみを忘れるためか、チョヒをひとりで育てる責任感にめざめたのか、とにかく偉いですよ」

「彼は亡くなる前、衛生班長を務めてたそうですが」

「ほう」デウィの虹彩のいろがわずかに変化した。「そんなことはご存じなんですね」

 教化所でイ・ベオクに会ってきた事実を、デウィには明かしていなかった。いまも話すつもりはない。アンサノはデウィを見つめた。「人民班において衛生班長は、次席かその次ぐらいの地位と思いますが」

「地位だなんて」デウィは苦笑に似た笑いを浮かべた。いまは年齢相応と思える無数の皺が、顔じゅうに波うった。「班内で権力を振りかざそうとしたところで、たかが知れてます。集団清掃やゴミの収集を仕切る者が必要ですし、グァンホはすすんでその役割を買ってでたんです。おおいに助かりましたよ」

 人民班長と立ち話しているだけでも、保安員の無知を痛感させられる。恐縮とともにアンサノはいった。「さっきの写真、もういちど拝見したいのですが」

「どうぞ」デウィが写真を手渡してきた。「塀をとり壊したのは、グァンホの身に不幸があって間もなくでした。チョヒが親戚に引きとられ、空き家になったので」

「それまでグァンホは、妻の死にもかかわらず、塀をそのままにしていたんですよね」

「墓標のような物だといってました。妻を告発した自分への戒めになると思ったのかも。いまとなっちゃ、彼の真意を知ることもできませんが」

 ふたたび写真を眺める。ブロック塀の壁面は滑らかで、よじ登るのは困難に思えた。ただしすべての箇所がそうだったとはかぎらない。一部が壊れていれば抜け穴になりうる。侵入と脱出の手段なら、まだほかにも考えられる。

 アンサノは思いのままを口にした。「ハシゴを持ってくれば、容易に出入りできたかも」

「さてね」デウィの眉間に皺が寄った。「事件が起きたころはまだ、水田だった土地も完全に干上がってはいなかったし、日没後に逃げおおせるのは大変ですよ。一歩ごとに膝までめりこんでしまうのでね。地面は真っ暗でなにも見えません。懐中電灯の光が動きまわってれば、遠くからでもわかりますし」

 ほかの畦道まではかなり距離がある。ハシゴを抱え往復するのは至難の業か。アンサノはため息まじりにきいた。「当時の保安員は、足跡を調べなかったんですか」

「塀の外側にまで関心を向けたようすはなかったな。イ・ベオクの犯行だと、みんな信じてたし」

「彼でないと証明されてから、ふたたびこの辺りを調査しにきたことは……」

「私の知るかぎり、なかったと思います」デウィはしらけたような表情を浮かべた。「そんな保安員がいますかね」

 アンサノは押し黙った。いるはずもない、デウィの目がそううったえている。

 殺人事件が起きたところで、監察保安員が現場の写真を数枚撮り、軍用犬に辺りを嗅ぎまわらせるだけだ。賄賂で売春を見逃す一方で、韓流ドラマの視聴者を摘発しては、無罪放免を条件にまた賄賂をせびる。それが保安員だと誰もが知っている。

 署の捜査資料は紙一枚で、写真すらない。アンサノはデウィにたずねた。「ほかに当時の写真をお持ちですか」

「めぼしい物はなにも」

「ご自宅にあるんですよね? 見せてもらえませんか」

「あとで探して、なにか見つかったら届けますよ」

「これからお邪魔したほうが早いと思いますが」

 デウィは首を横に振った。「うちはちょっと離れてますし、妻も市場にでかけてて、おかまいもできませんで」

 招きたくないといいたげな態度だった。わざわざ外でまちあわせたのもそのせいか。アンサノはきいた。「ペク家も二間あるんでしょうか」

「ええ。間取りはどこも同じです。奥さんが亡くなったあと、グァンホは奥の部屋を書斎がわりにしてて、手前の部屋は居間と娘さんの寝室を兼ねてました」

 捜査資料の書類をとりだした。グァンホの死体が見つかったのは、彼の自室だったとある。背中を刺されていたが、凶器は見つかっていない。なぜか朝鮮文學全集十巻のうち第七巻だけが紛失していた。盗難にあったかどうかは不明。表紙のない粗雑な製本の廉価版で、価値はないに等しいと書いてある。その記述の下は、二行ほど黒く塗りつぶされていて、透かしても見えなかった。チョヒが倒れていた場所は、室内としか記載がない。

アンサノは書類をしまいこみ、かつてのペク家を眺めた。「あのなかも見られますか」

「いまは別の住人がいますが、話しておきます」デウィが渋い顔で見つめてきた。「熱心ですね。保安員にしちゃめずらしい」

 褒めている口調ではない。軽蔑の響きが籠もっていた。少数派との関わりを拒むのは、この国では当たり前の生きざまだった。

 それを承知で、アンサノはあえてぶっきらぼうにいった。「お褒めにあずかり光栄です。僕らはいい仲間になれそうですね、ムン同志」

4

 秋になり日が短くなった。人民の起床時間といわれる午前六時を迎えても、窓の外はなお暗い。軒先にのぞく星空が、かろうじて藍いろがかったにすぎない。

 幸いけさは停電がなかった。裸電球に照らされた室内は、布団箪笥や引き出し棚が四方を囲み、入りきらない生活雑貨がひしめきあう板の間だった。

 アンサノはあぐらをかいて座り、食卓についた。どの家も靴を脱いで生活する。出勤に備え、ワイシャツにスラックス、靴下を身につけている。ネクタイを巻き、バッジと腕章のついたジャンパーを羽織れば、いつでもでかけられる。一般監察課ではなく、ほかの署の捜査課にあたる検閲課の所属だ。勤務中も制服を着る義務はない。

 電車の走行音が建物を揺るがす。平義線がすぐ近くを走っている。やがて静けさが戻ると、隣りの生活音が耳に届いた。長屋だけにノイズが響く。どこの家庭も朝の支度に追われる時間帯だった。

 娘のミンチェが洗面所からでてきた。高級中学の制服も、三年経つと傷みが激しい。入学時には大きすぎて、チマチョゴリみたいだとからかった記憶があるが、いまは身体の線が如実に浮きあがる。スカートの裾も短く思えた。椅子に腰かけたら膝が見えてしまうのではないか。青年同盟のバッジは忘れず左胸につけているものの、价川で見かけた女学生と同様、長くした髪を後ろでまとめていた。

 十六歳にもなると素行を問われる。娘が髪を伸ばしているのは知っていたが、けさは黙っていられない気分だった。アンサノは声をかけた。「ミンチェ」

第6回に続く