もはや脱出は不可能なのか? 悪戦苦闘するパリの新聞記者は、ついに非合法な手段に手を出すが/60分でわかる カミュの「ペスト」⑥

文芸・カルチャー

公開日:2020/9/6

超難解なカミュ『ペスト』のポイントを、マンガとあらすじで理解できる1冊。感染症の恐怖にさらされたとき、人間は何を考え、どう行動するべきか。解決策が見つからない中、立ち上がった人々の物語をご紹介します。

マンガ&あらすじでつかむ! 60分でわかる カミュの「ペスト」
『マンガ&あらすじでつかむ! 60分でわかる カミュの「ペスト」』(大竹稽:著、羽鳥まめ:マンガ/あさ出版)

「どんな手を使っても脱出する!」ランベールの挑戦

 街は完全封鎖された。

 そして、多くの仕事も閉ざされてしまった。なにせ、街に物が入ってくることもないし、街から物が出て行くこともないのだ。

 人々は、やり場のない不安や憤りを無能な当局へと向けた。新聞をにぎわせていた批判の代表が、これだ。

「措置を再検討し、緩和することを求める」

 県知事は、各通信社にペストに関する公式の統計を渡し、毎週それを公開するように要請することで、この批判に対応した。

 もう一つ、異様な光景が見られた。カフェや映画館が人であふれていたのだ。特に、街頭を歩く人の数は、日に日に増えていった。まるで、歩行者天国のようだった。しかし、カフェなどを除き大半の店は休業している。それでも、街頭には人が、どんどんあふれ出てきていた。

 要するに、彼らは暇を持てあましていたのだ。

 さて、市の門が閉鎖されて三週間後、リウーは一人の男の訪問を受ける。

 ランベールだった。

 彼は、「パリの大きな新聞のためにオランで調査をしている」新聞記者、「明るく賢そうな目をした若者」だった。

 リウー訪問の理由は一つ。

「証明書を書いていただけないだろうか。僕がペストにかかっていないことを証明するものが必要なんです」

 ランベールはオランからの脱出を図っていたのだ。

 そのため、役所に行って掛け合えば、自分は「特例」になれると信じていたのだ。

 彼は、恋人をパリに残していた。ランベールいわく、「とても気が合う彼女」だった。街が閉鎖されてさっそく、恋人に電報を打っていた。

「シンパイナシ スグカエル」

 だが、これだけでは、同じような別離に苦しみもだえる市民たちと、なんら変わりがないだろう。「特例」などにはなりえないはずだ。

 しかし、ランベールの状況には、その他多数の別離とは一線を画すものがあったのだ。

 彼は、そもそも「オランには関係のない人間であって、偶然、この厄災に出くわしただけ」だった。

 彼は主張する。

「だから、この街に留まらず、退去させてくれるのが正当なのです。隔離されるとしてもここではなく、外で課せられるべきなのです」

 たまたま仕事で滞在していた街でペストがアウトブレイクする。恋人に会いたいという気持ちもそれなりに強烈だろうが、ランベールにとって「自分はこの街と無関係である」ことのほうが、より正当性を持っていた。「わたしの恋人が外にいる」では開かない門も、「わたしはオランに関係のない人間である」だったら開くだろう。自分の主張はまったく正当なものだという自信が彼にはあったのだ。

 だから、ランベールはまず、県庁に赴き、公の人たちの承諾をもらったうえでオランから退去しようとしていた。そう、当初の企ては「退去」だったのだ。

 しかし、当然のことながら、県庁は役に立たない。「特例を認めることはできない」「自分では決められない」ということだった。

 じゃあ、ということで、さらに強力な正当性を獲得しようと、ランベールはリウーのところに来たのだった。

「あなたの気持ちはよくわかります。それでも、僕はあなたに証明書を書いてあげることはできない。あなたがペストにかかっているかどうかがわからないからです。それに、もしかかっていないとしても、この診察室から県庁までの道のりで、あなたがペスト菌に感染することがないという確証はありません。それに、たとえ僕が証明書を書いてあげたとしても、そんなものはなんの役にも立たないでしょう」

「なぜですか?」

「この街には、あなたと同じような状況にいる人たちが何千といるんですよ。彼らをみんな、街から出してあげることなんてできないじゃないですか」

「ペストにかかってなかったとしても?」

「それは十分な理由にはならないんです。まったく、ばかげたことですよ、そんなことは僕にもわかっている。でも、これは僕たち全員に関係のあることなんです。こうなってしまった以上、受け入れるしかないじゃないですか」

「わたしはこの街の者ではないんです!」

「お気の毒ですが、今は、あなたもこの街の人なのです」

「あなたには理解できないんです! あなたは抽象の世界にいるんです」

「僕は、明らかな事実を話しているのです」

「退去」は、断念せざるをえなかった。だが……。

「では、他のやり方を探します。とにかく、わたしはこの街から出て行きます!」

 そう言って帰って行くランベールの「抽象の世界」という発言によって、リウーは自分自身を省みることになる。

 毎晩、毎晩、リウーには人々の血涙、号泣、絶叫が降り注いでいた。リウーには、彼らを期待させるような言葉は見つからなかったし、自分自身も、なにも期待しないようになっていた。

 ペストという圧倒的な暴力は、個人的な幸福などには目もくれない。そんな暴力に対して、人間は無力である。

 個人的な幸福、それがランベールの現実であるなら、ペストの不条理を毎晩つきつけられているリウーの日々は、非現実なのだろうか。そして、それが抽象の世界だというのなら……。

「ペストと戦うには、多少は抽象に似なければならない」

 現実の幸福をあきらめる。それは非現実に生き、非現実と戦うことを決意することだ。

 リウーに証明書を断られた後も、正面から街を出ようと、ランベールは悪戦苦闘していた。

 なにせ、彼の売りは、「根気」「ねばり強さ」なのだ。

 彼は、数え切れないほどの役人と交渉した。

「仕事ができる」「頼りになる」と評判の役人たちもいた。たしかに、職務能力は一流、しかも善意の人たちだったが、ペストのことに関しては無力だった。

 しかし、いっぽうでは、口先だけの親切をふりまく役人たちもいた。スカした連中もいた。別の場所を紹介するだけの、まったくやる気のない連中もいた。

 はたして、ランベールは疲れ果ててしまった。ここまでやってようやく、ランベールは、はっきりとわかった。

 合法的な手段ではオランから出られない!

 疲れ果ててしまったランベール。奔走はムダだったのか? いや、この確証が得られたのだ。では、残された手段とは?

 非合法な手段だ!

 どんな手を使ってでも、絶対、オランから脱出する。もはや「退去」ではなく「脱走」になっていた。

 あらゆる人間が光を好むわけではない。どの世界にも、光が苦手、あるいは光を嫌う人間たちがいる。むろん『ペスト』にも。コタールだ。

「役所なんて当てになりません。この手の活動をしている組織が存在します」

 コタールはそそのかす。

「どうすれば、その組織と連絡が取れるのですか?」

 ランベールはのっかる。

 一般的に、「組織」というのは複雑だ。単純明快な組織があるとすれば、それは合法的な表の集団だ。そして、「組織」が複雑化すればするほど、構成員も増えていく。

 コタールがつなげようとしている「組織」の一員には、密輸を生業とする人間もいる。「いろんな品物を、うまく門を通させるんですよ」。ペストの災厄のおかげで、物価が高騰し、密輸はとてももうかるそうだ。他には、フットボールの選手もいる。しかし、ここまでの人物たちは、仲介役でしかない。一番重要な仕事をするのが、門を守る衛兵たちだ。彼らがいないと、「脱走」のミッションはなしえない。

 そして、「組織」の複雑さは、段取りの複雑さをも意味する。

 ランベールは、コタールの導きで、いかがわしい人物たちと接触し始めた。一日、あるいは二日おきに別の人物が現れ、次の人物とのランデブーの日時を決めていく。そんなこんなで、ようやく、最終的に手引きをする二人の衛兵を紹介された。

 残された裏の手続きは二つ。

 二日後の夕方に、衛兵たちと待ち合わせて、そのまま彼らの家に行く。

 彼らの家に二、三日泊まり込んで、脱走のチャンスを狙う。

 しかし、この二日後の夕方、来るはずの衛兵たちは、待ち合わせ場所に来なかった。

 だが、ねばり強さがランベールの真骨頂。彼は再びコタールと連絡をとった。この面倒な段取りを、初回とまったく同じようにスタート地点からやり直した。

 にもかかわらず、二度目の脱走計画も、最後の待ち合わせで挫折してしまう。

 ランベールは、挫折を予感していたのか、数時間前にリウーとタルーを訪ねていた。「どうせ、やつらは来ませんよ」。

 ランベールは、リウーとタルーに共鳴するところがあったのだろうか。この三人に共通するところは、自分で考え、自分で決断する点だ。他人がなにを言おうが、なにをしようが、断固として行動する。彼らは現場と実践の思想家とでも言えるだろう。そんな三人は、ヒロイズムと誠実さを話題にする。

 ランベールが切り出した。

「わたしは、あなたたちの保健隊について、たくさん考えました。それでもいっしょにやらないのには、わたしなりの理由があるんです。(中略)タルーさん、あなたは恋愛のために死ぬことができますか?」

「わからないなぁ。でも、今は死ねないように思いますよ」

「そうでしょうね。だがあなたは、観念のためには死ぬことができるのです。でも、もう、観念のために死ぬ人々を見飽きました。わたしはヒロイズムを信じません。ヒロイズムが容易であることを知っています。そして、ヒロイズムが人を殺すものであることが、身にしみました。人は愛する者のために生き、愛する者のために死ぬ、そのほうがいいじゃないですか」

 ランベールの言葉を静かに、熱心に聞いていたリウー。ランベールを見つめたまま、やさしく言った。

「人間は観念じゃないですよ」

「観念なんです。しかも不十分な観念なんです。だから、愛から顔をそむけてしまったら、その瞬間から愛にふさわしくなくなってしまうんです」

「きみの言う通りですよ、ランベール君。まったくその通り。だからわたしは、きみがしようとしていることをやめさせようなんて、これっぽっちも思っていない。しかし、一つだけ言っておきます。僕たちはヒーローになろうとしているんじゃない。それは問題にならない。問題は、誠実さなんです。おかしいかもしれませんがね。しかし、ペストと戦う唯一の方法は、誠実であれということなんです」

「誠実ですか?」

「世間一般でそれがどういうものか知りませんが、わたしにとって誠実さとは、自分の務めを果たすことです」

 リウーにはまだ仕事が残っていた。リウーとタルーは、いっしょにランベールの部屋を後にする。タルーは去り際、ランベールにそっと教えた。

「リウーの奥さんは療養所にいるんですよ。この街から遠く離れたところにあるそうです」

 翌日早朝、ランベールはリウーに電話をした。

「わたしも、保健隊に加えてください。ただし、脱出の方法が見つかるまでですが」

続きは本書でお楽しみください。