恋愛で同じ失敗を繰り返してしまうあなたに捧ぐ、フランス文学で学ぶ「悪女」入門【読書日記27冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2020/9/14

2020年8月某日

 壊れたビデオテープの映像を見せられているのだろうかと思うほどに、似たような恋愛ないしは痴情のもつれを繰り返してきた。

佐々木ののか

 たとえば、付き合う男性がいつも「ダメ」になってしまう。ダメにも種類がいろいろとあるが、暴力を振るう、金を無心する、軟禁する、働かない、レイプと呼んで差し支えない行為をする、私の容姿や仕事を侮辱する、大事にしている動物を虐待する、などなど、ダメを概ね舐めてきた。(と、書いてきて、アル中とヤク中はいなかったことに今気づいたが、コンプリートせずとも許してほしい)

 私が出会う男性がそうなのか、私がそうしてしまうのかわからない。いずれにしても、私は、いつもそのときどきの男性に一所懸命なだけなのだが、過去の男性たちはみな口裏を合わせたかのように「今までにこんなことはなかった、お前のせいだ」と言う。

 そうかと思って、DVの本を読むと「それはDVを振るう人の常套句です、あなたは悪くない」と書かれている。なるほど、それはそうだとしても、どうして私が暴力を振るう人とばかり付き合うことになってしまうのかの問いに答えることにはならない。私は「悪くない」としても、ここまで立て続くと何かの因果があるとしか思えない。たとえば「運命」とか「業」だとか、予め定められて逃れられない何かであったほうがまだ報われる気がする。

 私のようにDVの要素を持つ男性とばかり付き合ってしまう、というわけでなくても、恋愛に関して何かしらの「型」から逃れられない人は多いのではなかろうか。そんな広い意味での同胞には、『悪女入門 ファム・ファタル恋愛論』(講談社現代新書)をおすすめしたい。

悪女入門 ファム・ファタル恋愛論
『悪女入門 ファム・ファタル恋愛論』(講談社現代新書)

 本書は、著者でありフランス文学者の鹿島茂さんによれば「フランス文学と同時にファム・ファタル誘惑術も学べる、一粒で二度美味しい、きわめてお得な新書」である。ファム・ファタル(femme fatale)とはフランス語で「運命の女」を意味する。男性を誘惑する「運命の女」になる術を学べる本、といったところだろうか。

 しかし、「フランス文学と同時に学べる」というところが単なる恋愛ハウツー本とは一線を画す。フランス文学は、恋愛百戦錬磨の、著者が言うところの「スーパー・ウッフン」な女たちが登場する小説が多い。そうした「物語」を繙きつつ、要所要所で誘惑術の分析・解説をしてくれるところが本書最大の魅力である。こうした「型」を学ぶことで、「不運」な恋愛の要因や、そこから抜け出す方法を探り出せるというわけだ。

 たとえば、第1講は「健気を装う女」として『マノン・レスコー』が取り上げられる。『マノン・レスコー』は、名家の出である主人公のシュヴァリエ・デ・グリュが、一人の少女・マノン・レスコーに出会い、「たちまちにして夢中になってしまうほど恋の炎に燃え立って」、彼女にアプローチするところから始まる。

 未婚の女性が家と家を取り結ぶ「商品」だった18世紀末、若い未婚の男女が接近することは想像を絶するほど大変だったことを考えれば、いかに例外的な出来事かおわかりいただけるだろう。

 これに対し、マノン・レスコーは「当惑した様子も見せず」、「修道女になるために両親に送られてきた」とアミアンという街に来た理由を答え、そのうえで「自分が不幸になろうとしているのはわかりきっているが、それを避けるいかなる方法も自分には残されていないのだから、これは明らかに神様の意志なのだ」とデ・グリュに告げたというのだ。

 マノンが深窓の令嬢だったら初めて口をきく男に、しかも明らかに激しい興味を示している男に、自分の身の上を話すだろうかと著者は言う。一読者の私とて、「うわぁ」と声を漏らしてしまったほど、グッとくるしたたかさだ。

 著者は「悲運に耐えようとする健気な女ほど男の恋心を刺激するものはない」とし、ファム・ファタルたらんとする女性はぜひとも覚えておくべきテクニックだというが、悲運に耐えようとする男性に対して母性をくすぐられる女性も多そうである、というか私がそうである。しかし、自らのデ・ジャヴにうなだれている暇はない。物語はまだ冒頭なのだ。

 その後すぐに修道院行きを延期し、出会ったばかりのデ・グリュに「駆け落ちしよう」と言ったり、「お金持ちの叔父から送金があるから大丈夫」と言いながら湯水のようにお金を遣ったりと一見して不審な行動をとり続けるマノンに対しても、マノンにぞっこんのデ・グリュはとくに疑うことをしなかった。男の「信じたい」と願う気持ちを手玉に取り、現実よりも幻影を見させる術に長けている点も、ファム・ファタルの特徴のひとつだという。

 その後、デ・グリュはしばらくマノンと一緒に暮らしたものの、マノンの愛人とマノンの手引きによって、デ・グリュの父がつかわした3人の使徒によって連行されてしまう。マノンの裏切りがすぐには信じられず懊悩するものの、後に勉学に励むようになったデ・グリュ。しかし、そんなデ・グリュの前に再度マノンが現れ、さすがのデ・グリュもこのときばかりは「裏切り者!」とマノンを罵った。ところが、ここでもマノンはファム・ファタルぶりを発揮する。

「あなたの心を返してくださらなければ、わたしは死ぬつもりです」と言い、デ・グリュを抱擁し、情熱的な愛撫を浴びせかけたというのだ。

 またしても信じられないほどのしたたかさを、著者はこのように解説する。

男から裏切りをなじられたとき、それに正面切って反論するのは正解ではありません。まず、後悔の涙、ついで自殺のほのめかし、最後に愛撫、これで男はイチコロです。

 男性とは、また、そうやってのけることは、そんなにも簡単なことだろうかと拍子抜けしてしまうが、これは物語であるし、それをひょいとやってのけられるのが、真のファム・ファタルなのだろう。

 しかし、思えばこれも身に覚えのある展開だ。こちらを一方的に突き放してきた男性が、ある日突然連絡をしてきたことがあった。以前より幾度となくぶつけられてきた暴力や不義理に嫌気が差して「もう会わない」と言うと、「今までごめんね」と謝り、「来てくれないと死んじゃうよ」とまさに自殺をほのめかし、「本当に会いたいんだ」と甘い言葉を連ねてきた。

 ちなみにその後、情が働いて「改心してくれたなら」と会いに行った先で、髪の毛を掴まれて部屋じゅうを引き回されたことはここだけの話にしておいてほしい。Femme fataleのことは知らないが、この手の“Homme fatale”は現実に存在する。

 ……話を『マノン・レスコー』に戻そう。その後もマノンは、デ・グリュに彼の親友から返せる目途のない金を借りさせたほか、金を無心するために浮気を重ね、金満家の愛人の美人局になったことが露呈し、最終的には関わったデ・グリュとともに逮捕されてしまう。ふたりは別々の収容所に入れられることになるが、その間もマノンの身を案じたデ・グリュは、銃を手に入れて逃走しようとする最中、誤って刑務所長の召使を撃ち殺してしまう。

 ほとんど破れかぶれになったデ・グリュはその後もさまざまな悪事に手を染めて「ゼロ」どころではなく「マイナス無限大」の地獄に加速度的に転げ落ちていく。純愛といえば、純愛かもしれないが、さすがにここまでの破滅の物語の主人公になりたい人などそうそういないだろう。

 このほかにも、「脳髄のマゾヒズム」を相手取る『カルメン』、「才能食い」のファム・ファタルとして『彼方』、「『神』に代わりうる唯一の救済者」として『マダム・エドワルダ』など、全11講が展開されている本書。ファム・ファタルの要素をそのまま習得すれば、意中の相手を“破滅”させることもできるかもしれない。

 恋愛下手な私としては、むしろ本書に登場する男性側に共感する面が多かったけれど、ファム・ファタルのポイントを押さえておきさえすれば、それが“罠”だと事前に察知し、破滅も防ぎうる。

 無責任なことを言えば、破滅を選んでもいい。ただし、その後に展開される物語の筋書きを読んだうえで破滅の快楽に身を投じることと、何が何だかわからないまま破滅に巻き込まれることは全く似て非なるものだ。

 いずれにしても、恋愛および人間関係には「登場人物」や「物語」に即した「型」がある。あなたの恋愛や人間関係がうまくいかないとしたら、それはあなたが悪いというより「型」を知らないだけかもしれない。

 恋に悩める人たちよ、本書を読んで“ファム・ファタル”たれ。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=Yukihiro Nakamura

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka