カリスマ政治家「聖徳太子」の最期は? 母や妻と同じ流行り病に…/死にざま図鑑①

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/19

死にざま図鑑』から厳選して全7回連載でお届けします。今回は第1回です。日本の歴史人物の「死にざま」にスポットを当て、その生涯を紹介。残念なラストに終わった、あの人物の大失敗とは? 幸せな最期を迎えたあの人物の処世術とは? 偉人たちの最期の姿を通じて、よりよく生きる術を知る歴史雑学本です。

死にざま図鑑
『死にざま図鑑』(伊藤賀一:監修、田渕正敏:絵、沖元友佳:文/ポプラ社)

死にざま図鑑

聖徳太子(574~622年)

力のある豪族たちをまとめて、大おじの蘇我馬子といっしょに天皇を中心とした国づくりをすすめた人物。天皇の政治をたすける「摂政」という立場で活躍した。身分に関係なく、能力があれば出世させる「冠位十二階」や、役人の心がまえを示した「十七条の憲法」といった制度をつくったカリスマ政治家だ。特技は人の話を聞くこと。日本のお札になった回数がいちばん多い偉人。

死にざま図鑑

死にざま図鑑

 新しい制度や文化を学ばせる目的で、隋(中国)に遣隋使を送りだすなど、国をよくするために、がんばった太子。でも、大おじの蘇我馬子の権力がどんどん大きくなり、太子の理想とする政治はできなくなってしまう。

 遣隋使を送ったあと、太子は政治の世界から引退する。そして、宮(天皇の住む場所)のあった飛鳥から斑鳩という土地に引っ越して、大好きな仏教の世界にのめりこんだ。太子は法隆寺を建てるなど、仏の平和な教えを日本に広めようとした人物でもあるのだ。「世間虚仮唯仏是真(現実はむなしい。仏だけが真実)」という言葉をのこしている。

 そんな仏教ざんまいの太子だったが、天然痘という感染症でこの世を去る。太子の死から約20年後、馬子の孫の蘇我入鹿に、太子の一族はほろぼされてしまう。それを知ったあの世の太子は、争いごとばかりで、やっぱり現実はむなしいと思ったかもしれない。

太子のざっくり年表

574年 橘豊日皇子(のちの用明天皇)の子として生まれる。
587年 仏教反対派だった有力豪族・物部守屋を、大おじの蘇我馬子と協力してほろぼす。
593年 推古天皇の摂政になる。
603年 冠位十二階をつくる。
604年 十七条の憲法をつくる。
605年 斑鳩宮に引っ越す。
607年 小野妹子らを隋に派遣する。
622年 天然痘で亡くなる。

死にざま図鑑

<第2回に続く>