大好きなお酒もタバコも減らしたけれど… 脳出血でこの世を去った「福沢諭吉」/死にざま図鑑③

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/21

死にざま図鑑』から厳選して全7回連載でお届けします。今回は第3回です。日本の歴史人物の「死にざま」にスポットを当て、その生涯を紹介。残念なラストに終わった、あの人物の大失敗とは? 幸せな最期を迎えたあの人物の処世術とは? 偉人たちの最期の姿を通じて、よりよく生きる術を知る歴史雑学本です。

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死にざま図鑑
『死にざま図鑑』(伊藤賀一:監修、田渕正敏:絵、沖元友佳:文/ポプラ社)

死にざま図鑑

福沢諭吉(1835~1901年)

大坂の蔵屋敷で働く、豊前中津藩(現在の大分県)の下級武士の家に生まれる。1歳のころに父親を亡くす。貧しかったが熱心に勉強して、蘭学の先生になり、進歩していた欧米の文明を、日本の社会に広める活動をした。大のお酒好きで、酔っぱらって全裸で外に出てしまう大失敗をしたことも。反省して禁酒したけど、タバコを吸いはじめる。そして禁酒も失敗した。

死にざま図鑑

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 オランダ語だけでなく英語もできた諭吉は、20歳代後半のとき、幕府の選抜外交メンバーとしてアメリカやヨーロッパへ渡った。その旅で諭吉は進歩した欧米の文明を目の当たりにした。そして、このままでは、日本は欧米に侵略されてしまうのではと危機感をもったんだ。

 幕府がたおれたあと、明治新政府に参加してほしいと声をかけられたが、諭吉は断った。政治家として国を動かすよりも、新しい日本のための人材を育てることを選んだんだ。諭吉が江戸に開いた蘭学塾が慶應義塾という名前に変わったのは、このころだ。

 1872年に諭吉が書いた『学問のすゝめ』では、人生を決めるのは身分や貧富の差ではなく、学問を勉強するかどうかだ、と説いた。この本はたくさんの人に読まれて、国民一人ひとりの意識に大きな影響をあたえたんだ。

 こうして日本の教育を改革した諭吉は、高齢になると静かにくらすようになる。健康のために、大好きだったお酒やタバコもへらしていた。そして、66歳で父親と同じ脳出血でこの世を去った。

万国博覧会:世界各国の文化や新しい科学技術を広め、国際交流を深めるために開かれる博覧会。略して万博、EXPOともいう。

諭吉のざっくり年表

1835年 現在の大阪府大阪市にあった中津藩の蔵屋敷で生まれる。
1854年 長崎に出て蘭学を勉強する。
1855年 大坂の医師で蘭学者の緒方洪庵の適塾に入門する。
1858年 江戸で蘭学塾の講師となる。
1860年 軍艦咸臨丸に乗り、アメリカに渡る。同年に帰国する。
1861年 幕府の使節としてヨーロッパに派遣される。
1868年 幕府の家臣をやめる。明治新政府の仕事も断る。江戸の蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育に力を入れる。
1872年 『学問のすゝめ』初編が刊行される。
1898年 脳出血でたおれる。お酒とタバコをひかえる。
1901年 脳出血が再発して、死亡する。

死にざま図鑑

<第4回に続く>