「魔王」=姉が実家に帰ってきた!/一穂ミチ『スモールワールズ』①

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/30

スモールワールズ

著:
出版社:
講談社
発売日:

6つの家族の光と影を描き出す6編からなる連作短編集『スモールワールズ』。本書に収録された1編「魔王の帰還」を全6回でお届け。「魔王」とあだ名される姉がなぜか実家に出戻ってきた! 高校生の弟はそんな姉に翻弄されながらも姉の「秘密」が気になって…。

スモールワールズ
スモールワールズ』(一穂ミチ/講談社)

魔王の帰還

魔王の帰還
立体:北原明日香 / 写真:下村しのぶ

 がらがら、と忙しなくけたたましい音。ハムスターが超高速で回し車を疾走しているような。鉄二は夢うつつにそれを聞きながら、ああ姉ちゃんの音だ、と思ったが、すぐに「んなわけないよな」と思い直してすとんと眠りに落ちた。

 朝、目が覚めた時にはそんなことなどすっかり忘れていたので、結婚して家を出たはずの姉が居間に鎮座しているのを見た瞬間、思わず声が出た。

「うわっ」

 ぬりかべみたいに大きく四角い背中がたちまち振り返る。

「いつまで寝とるんじゃ!」

 起き抜けから重低音の一喝を浴び、条件反射で「ひっ」と後ずさりかけたがどうにか踏みとどまり「何だよ」と言い返す。

「七時だよ普通だよ俺もう朝練とかねーし、つうか姉ちゃんこそ何やってんだよ……」

 堂々と反論したかったのに、早口なうえボリュームは尻すぼみになり「はっきり言わんか」とまた喝を飛ばされる。

「図体は大きゅうなっても、相変わらずなよなよしとるのう。早う顔洗うてめしを食え」

 何だ、盆でもないのに里帰り? いや、まだ夢だったりして。冷たい水で顔を洗って居間に戻っても姉は依然存在し、姉以外にはありえない圧倒的な迫力でどんぶり片手にもりもり白飯をかっ込んでいた。その向かいで両親はそ知らぬ顔をしている。

 おそるおそる席につき「どういうこと?」と再度問うてみると母が「見てのとおり帰ってきちゃったの」とため息混じりに答えた。

「離婚するんだって」

「ああ……」

 自分の口から、気の抜けた情けない声が洩れるのを聞いた。ついに来るべき時が来たのか、崩壊の予言が現実になったのを目の当たりにしたように脱力してしまう。

「もっと驚かんか!」

 隣の姉がくわっと目を見開いたが、驚けるわけがない。むしろよく結婚したよ、この女と。もそもそ食事を始めると噛み締める間もなく「理由を訊け」と催促された。

「どうせお前のDVだろ」

「お前は今姉に向かって『お前』言うたんか?」

 耳をがっと摑まれれば即座に「すいません何でもないです」と謝罪が口をついて出る。これはもう長年染みついた隷属の習性だ。

「ん? 何じゃピアスなんか空けとるんか。頭は金髪じゃし、野球やめた途端に色気づきよって、どういう新装開店じゃ」

「痛いって!」

「こらそのへんにしときなさい、鉄二の耳がちぎれる。真央の場合はDVするつもりがなくてもなあ……」

「そうなのよね、ゴリラが小鳥をかわいがろうとして握りつぶしちゃったみたいな可能性も」

 両親は至って真剣な面持ちで頷き合っていたが、姉は「はっはっは」と豪快に笑い飛ばす。戦国武将がいるよ。

「あの、うじうじしたちっさい男と暮らすんは飽いたんよ」

 お前と比べりゃほとんどの男が小さいんだけどな、と今度は胸の中だけで突っ込んだ。

「それで、どうするんだ真央、これから。トラックの仕事は?」

 父の問いに、「辞めたけぇ、しばらくはここでのんびりするわ」とこともなげに答える。

「傷心じゃけぇ労ってくれぇや。まずはお代わりじゃ」

「うちのエンゲル係数も労ってほしいんだけど」

 どんぶりにこてこてと白飯を盛りながら母がぼやいた。

「この間鉄二が帰ってきてやっと三人分の量に慣れたとこなのに」

「張り合いがあるじゃろう」

「とりあえず鉄二はきょうのお昼、パンでも買って食べてね。お姉ちゃんがご飯食べ尽くしちゃったから」

 黙って千円札を受け取ると急いで身支度を済ませて家を出た。鉄二自身まだ見慣れていない玄関に、姉の二十八センチのスニーカーとキャリーケースがあり、ゆうべがらがらうるさかったのはこれか、と納得した。二十七歳、身長百八十八センチ、体重怖くて訊けない、路上でファッション誌のカメラマンに声をかけられたことはないが総合格闘技(地下プロレスだったかも)からのスカウトはあった、占い師によると前世は古代ローマの剣闘士、名前は真央だがあだ名は「魔王」。そんな規格外の姉が、出戻ってきた。

 

 授業中眠らずにいる、というのは鉄二にとって至難の業だった。これまでのように部活で身体を酷使することもなく、夜も健やかに八時間の睡眠を確保しているのに、教科書の活字を追っていると条件反射的にまぶたが下がってくる。その日も二時間目の早々から記憶が途切れ、背中をそっとつつかれて目覚めた時、教室前方の時計は三時間目の終盤を指していた。

 やべえ、また寝てた。のそっと上体を起こして振り返ると、まだ名前も覚えていない同級生が「あの」と怯えた表情で紙切れを差し出す。

「小テスト、後ろから回収しろって」

 小テスト? 再び自分の机を見返すと、確かに二つ折りのプリントが置いてあった。おそらく、突っ伏して眠る腕の下にそっと差し入れられていたのだろう。その時点で起こせや、と思ったが、自分が悪いので仕方ない。小テストの科目は日本史、なのに鉄二の机には二時間目の古典の教科書とノートがそのままだった。

「先生、すいません、まだできてないんすけど」

 片手を上げて申告すると教師は目を合わせずに「あした持ってきなさい」と答え、特に注意もしなかった。テストをテイクアウトOKにしてどうすんだよ。徒歩圏内にひとつだけある公立高校に新年度から通い始めたが、GWを過ぎても友達はおろか、気軽に言葉を交わせる相手さえおらず、教師も鉄二を遠巻きにして居眠りを咎めない。百八十三センチ、日焼けして真っ黒な顔にピアス&短い金髪という外見が考えるまでもない主な原因で、そりゃ怖いよなとこちらから積極的に歩み寄るのも諦めた。登校して、寝て、休み時間には弁当を食って、午後も寝る。「非生産的」って今の俺のためにあるような言葉だな、とチャイムをぼんやり聞きながら考えた。野球に明け暮れて体力とカロリーを消費する生活に生産性があったとも思わないが、日々はあっという間に過ぎてこんなもの思いに耽る暇もなかった。でももう終わったことだ。見事なまでにひとつも解けない小テストの設問を眺めていると、窓際のあたりで小さなざわめきが起こる。

 ─え、誰だろ、あれ。

 ─でかくね?

 些細な異変の気配に「なになに」と次々同級生が吸い寄せられていく。「あれで女?」という声が聞こえた瞬間、鉄二は立ち上がっていた。

「リアル『進撃の巨人』じゃん」

「そこまでじゃねーだろ」

「『八尺様』だよ」

「何それ」

「知らない? ネットの怪談で超大女の妖怪みたいなの」

 窓辺に群がる連中を尻目に教室を出て、三階から一階まで駆け下りた。あんなふうに取り沙汰される女の心当たりはひとりしかいない。

「姉ちゃん!」

 下駄箱の前で、その張本人と出くわした。

「おう、ちょうどよかったわ」

 姉の手からはハンカチに包まれた鉄二の弁当箱がぶら下がっている。

「やっぱり米が食いたかろうと思うてな、炊いて持ってきてやったぞ」

 余計なまねを、などともちろん口に出せるはずもないので「どうも」と素早く受け取ってお引き取りいただくつもりだったのに、なぜか「鉄二の教室はどこじゃ」と土足で校内に上がり込もうとする。

「何やってんだよ」

「せっかくじゃけ、ちょっと見学させえ」

「いや靴のままじゃ駄目だって」

 必死で制止するとためらいなくスニーカーを脱ぎ、靴下で踏み入ってきた。

「ちょっと姉ちゃん」

「何階じゃ」

 すでに行き交う生徒の耳目をかなり集めている。この場に留まってこれ以上目立つのも教師に介入されるのもまずいと思い「見たらすぐ帰れよ!」と念押しして階段を先導した。誰かとすれ違うたび、後頭部に刺さる好奇の視線が痛いほどなのに、姉は頓着せず「JK時代を思い出すわ、懐かしいのう」ときょろきょろしている。何がJKだよ、「人外の筋肉」か?

 クラスじゅうの注目を(悪い意味で)浴びるのを覚悟して自分の教室に戻ると、さっきまでのざわめきが嘘のように静まり返って無人─いや、ひとりだけ残っていた。

「次、実験あるから化学室だよ」

 住谷菜々子、鉄二が唯一フルネームで覚えている女子がそっけなく告げると、教科書類と筆記用具を抱えて反対側の扉から出て行った。そうか、みんな教室移動でいないのか。晒し者にならずにすんでよかった、と息をついた途端後頭部をばしっと叩かれて眼球が落下しそうになる。

「何だよ!」

「お前は親切にしてもらって何で礼を言わんのじゃ!」

「え、ああ……」

 そうだった。鉄二がしょっちゅう寝ているから、実験の予定さえ聞き逃していることを想定して待っていてくれたのだろう。でも、住谷菜々子から話しかけられたのが初めてで、というか異性との会話そのものに慣れていないため面食らってしまった。どういうわけか彼女は鉄二と同程度にはクラスの中で浮いていて、おしゃべりする相手も一緒に弁当を食べる相手もいないようだった。だから、菜々子の名前だけは把握していた。

「ほれ、さっさと行ってありがとう言うてけぇ!」

「分かってるよ、つーか四時間目始まるからまじで帰れ、猟友会呼ばれる前に!」

<第2回に続く>

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ISBN:
9784065222690