「…とうとう見つけた」ツイッター画面を見つめ、不敵な笑みを浮かべる配達員。その思惑は…/気がつけば地獄②

文芸・カルチャー

公開日:2021/5/2

気がつけば地獄』から厳選して全6回連載でお届けします。今回は第2回です。『レタスクラブ』での大人気連載がついに書籍化! 薄氷の夫婦関係、許されぬ恋、ありえない友情――その友情もその愛も、決して芽生えてはいけなかった。冷え切った関係の夫婦の前に現れたひとりの女。一体彼女は何者…? 予測不可能、衝撃展開のサスペンス!

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気がつけば地獄
『気がつけば地獄』(岡部えつ/KADOKAWA)

 ドアが閉まった瞬間、台車を押しながらダッシュでエレベーターホールまで行って、下降ボタンを連打した。

 すぐに気づかれて呼び戻されたら、効果が薄まっちゃう。荷物が違うとわかってから時間が経てば経つほど、不満が募っていらいらして、彼女はきっとツイッターに愚痴るに決まってるんだから。

 やっと来た下りのエレベーターに飛び乗って即、ツイッターを見る。まだ反応はない。一階で降り、エントランスから出たところでもう一度チェック。まだない。

 マンションの前に停めた配送車に台車を積んで、エンジンをかける。通りに出てすぐの信号につかまった。バックミラーを動かして、さっきのマンションを映す。向かいのビルが邪魔をして301号室は見えないけれど、上のほうの階は見える。みんな同じ窓。玄関のドアもみんな同じ。でも、そこを開けると中は家ごとに全然違う。匂いも、色も、温度も。

 次の配達を終えて車に戻ると、すぐにツイッターを開ける。検索窓に「宅配」「部屋番号」「荷物」「配達」「間違え」など、ワードをあれこれ入れ替えては、タップする。

 何度目かに、

「ビンゴ!」

 思わずハンドルを叩いて叫んじゃった。

『最悪。宅配業者が部屋番号を間違えて、他人の荷物を置いていった。そして、夫に内緒で買ったわたしの美顔器は、まだ届かない……(泣)』

 間違いない。とうとう、祐くんの奥さんのツイッターアカウントを特定したのだ。

 サニー、だって。美顔器、だって。夫に内緒、だって。笑える。笑える笑える。

 そのあとはもう、配達中もずっとにやにやしちゃうし、お客さんの前で何度も吹き出しそうになるしで、大変だった。

 夜になって、部屋に祐くんが来てからも、笑いを堪えるのに必死だった。彼がタオルで頭を拭きながらバスルームから出てきたときは、とうとう吹いちゃった。

「ん? 何か言った?」

「ううん、何でもない」

 祐くんは必ず、帰る前にシャワーを浴びる。まるでここの匂いを微塵も残すまいとするかのように、自分で買ってきた無香料のボディソープで念入りに洗う。すごく悲しい。

 いつだったか、わたしの部屋から自宅に帰ったとき、彼は玄関先で奥さんから「安石鹸の匂いがする」と言われたことがあるらしい。確かにそのときうちで使っていたのはドラッグストアで買った安物だったけど、カチンときて、じゃああなたの家ではどんな石鹸を使ってるのって訊いたら、似たようなブランドだった。

 ということは、もしかして奥さん、わたしの存在に気づいたことを匂わせているんじゃないかと思って、

「その〝安〟って、石鹸じゃなくて、わたしのことなんじゃないの?」

 と言うと、祐くんは、

「まさか、あいつが気づくわけないよ、のんびりしたやつなんだから」

 だって。のんびりしてるのはどっちだろうって思ったけど、言わなかった。だって、もうそれ以上、彼の口から奥さんの話なんて聞きたくなかったから。

 次の日、濃厚な香りがするロクシタンのシャワージェルを買って、バスルームに置いておいた。怒られるかな、それとも気づかずに使っていい匂いをさせたまま帰ってくれるかな、とドキドキしながら待っていたら、彼はまるで見越していたみたいに、無香料のボディソープが入ったレジ袋を提げてやって来た。「これ、置いといて」とポンと渡されたとき、本気で別れようと思った。そう思ったのは二度目だった。でも、できなかった。今もお風呂に入るたびに、ロクシタンの隣に置いてある彼のボディソープを見ては、悲しい気持ちになっている。

「さっきから、何笑ってんだよ」

 祐くんが、バスタオルを腰に巻いてドライヤーで髪を乾かし始めた。

「仕事でちょっと色々あって、思い出し笑い」

「気楽でいいねえ、派遣OLさんは」

 彼は、わたしが派遣の仕事を辞めたことを知らない。今、宅配会社で配達のバイトをしていることも、その配達エリアに祐くんの家があることも、知らない。祐くんが「ビジネス目的以外でやってるやつはアホだ」と馬鹿にしているツイッターをわたしがやっていることも、そこで祐くんとのことを「婚約中の恋人Y」として書いていることも、何も知らない。

 人は、隠しごとをたくさん持っている。隠しごとの前には、そのおかげで笑っている人がいて、隠しごとのうしろには、そのせいで泣いている人がいる。

 出会ったとき、祐くんは既婚者であることをわたしに隠していた。何度もデートしてとうとう裸になって抱き合って、そうなる前の何十倍も大好きになってしまったあとで、奥さんと息子がいると打ち明けてきた。運命の人と出会ったと思っていたわたしが落とされた穴の深さは、言葉では言い表せない。

 祐くんが吐き出して下ろした重荷は、そのままわたしにのしかかった。さっきまでどっぷり浸かっていた恋愛の甘い蜜が、突然溶岩みたいに煮えたぎってわたしを焼き始めた。

「夏希のことが好きだから、よかったら、これからもこうして会おうよ」

 何もしていないのに罪人になってしまった衝撃で狼狽えているわたしに、祐くんは口笛でも吹くように言った。

「よかったら」って何。むちゃくちゃ頭にきて殴りかかろうとしたけど、全身がぐらぐら煮え立っているせいで、震えてできなかった。ひどい、最低、と頭の中ではこだましているのに、指一本動かせなかった。人をあんなに好きになっちゃったあとで嫌いになる方法なんて、誰からも教わってない。

 わたしがどれほど苦しんでいるか、祐くんがこれっぽっちも気づいていないとわかったのは、それから間もない、ベッドの中だった。

「俺と夏希って最高の関係だと思わない?」

 祐くんが言った。

「最高の関係って、何?」

「こういうさ、割り切った大人の関係」

 割り切ったって、誰が? いつ?

 これが最初の、本気で別れようと思った瞬間。今でも、思い出すと涙が出てくる。あのときも、彼が帰ったあとに泣いて泣いて泣いて、泣き過ぎて頭がぼうっとなって、そんな状態が続いたある日、気がついたら会社帰りの祐くんを尾行してた。

 電車とバスを乗り継いで着いた見知らぬ街を、祐くんはすいすいと足早に進んで、やがて白いマンションに吸い込まれていった。その上に点々と並ぶ、明かりの灯った窓のひとつひとつに、ほんの一瞬わたしが夢見た幸せが詰まっているのだと思ったら、胸が張り裂けて血が吹き出しそうだった。

 それからたびたび、週末にそこへ行った。自分でも何がしたいのかわからなかったけど、勝手に足が向いてしまったのだからしかたがない。

 そしてとうとう、そのときがきた。

 車道を挟んだ反対側の街路樹の陰に立っていたら、マンションから祐くんの家族が出てきたのだ。

 全身の毛が、逆立つのがわかった。そんなこと、生まれてはじめてだった。耳から上は燃えるように熱くなって、下は凍りついていた。だって、祐くんの奥さんは、わたしよりかわいくも美しくもなくて、服のセンスだってダサかったのだ。祐くんはいつも「こんなかわいい子とつき合えるなんて夢みたいだ」なんて言うくせに、わたしよりもかわいくないあの人と別れる気はなくて、もしもあの人とわたしが川で溺れたら、迷わずあっちに手を伸ばすんだもの。

 家に戻る電車の中で、向かいの窓ガラスに映る自分がボロボロと涙を流しているのに気がついた。泣き癖がついていて、いつ泣き始めたのかもわからなかった。バッグから出したハンカチは、重く湿って冷たかった。

 そんな思いをしても、彼の家の近くへ通うことはやめられなかった。通えば通うほど、気持ちも頭も揺さぶられて、わたしは少しおかしくなっていたのだと思う。

 あれは、祐くんが無香料のボディソープを買ってきた次の日のことだ。前の晩に泣き過ぎて目の腫れがひどかったので、仕事を休んだ。ずっとベッドにもぐったままでいて、何時かわからないけどふらふらっと起きたあと、記憶がなくて、気がついたら電車に乗って祐くんの家に向かってた。

 マンションに着いて、近くの歩道を何度も往復していたら、駅のほうから向かってくる一台の自転車に目が留まった。あの人だった。ノーメイクの顔は笑っていて、大声で何か喋っていた。うしろに、子供を乗せていた。それがあまりに無邪気で幸せそうで、体から力が抜けた。道端でよろよろしているわたしに笑い声を浴びせながら、奥さんの自転車は通り過ぎて行った。

 力を振り絞って振り返ると、マンションの前に宅配便のバンが停まったところだった。出てきた配達員が奥さんに挨拶して、奥さんが何か言葉を返しながら自転車を降りた。そのバンのうしろのドアに『配達員募集・大好きなこの街で働きませんか?』と書かれたステッカーが貼ってなかったら、こんなことは思いつかなかったと思う。

 その日のうちに、宅配会社の求人に応募した。平日の日中だけという勤務時間の要望が通って、採用が決まった。勤めていた派遣の仕事は契約期間の満了前だったけど、親が急病で田舎に帰ると嘘をついて辞めた。教習所へ行って、ペーパードライバー用の運転講習を受けた。そうして、誰にも内緒で、祐くんが暮らす街の宅配便配達員になった。

 彼の家へはじめて配達したのは、配達員になって一週間くらい経った頃のことだった。差出人は聞いたことのある教育系出版社で、たぶん子供向けの教材だったと思う。「はあい」と能天気な声がしてドアが開くと、内側から、もわっと、嗅いだことのない匂いが漂ってきた。臭いわけじゃないけど、心地いいわけでもない、そんな匂いだった。

 まもなく、次がきた。九州の農園からの米二十キロ。このときにも、ドアが開いたら同じ匂いがして、それがこの家の、家族の匂いなのだとわかった。

 次の荷物の送り状を見たときは、思わずそれを引きちぎりそうになった。祐くんの実家からだったのだ。わたしは彼の出身県しか知らなかったけど、依頼主欄に祐くんと一字違いの「中屋祐吉」と書いてあったのだから、間違いなかった。きっと、お父さんだ。わたしだって、会ってみたいのに。会う資格があるはずなのに。引きちぎる代わりに、スマホのカメラで送り状を撮影した。

 この日、奥さんは片手にスマホを持って出てきた。ちらっと見えた画面に、ツイッターのタイムラインが映っていた。祐くんが大嫌いなSNSを奥さんがやってるなんて、ちょっと驚いた。きっとわたしと同じように、内緒でやってるんだ。どんなことを書いているんだろう。知りたくてたまらなくなった。

 運転中ふいに、前の勤め先で起こったできごとを思い出した。ある社員がツイッターに上司の悪口を書いていたのが、ばれてしまった事件だ。職場に鼠が出て騒ぎになったとき、彼はそのことをすぐにツイートして、それを、鼠の退治方法をネット検索していた別の社員から偶然見つけられてしまった。投稿時刻がその会社で鼠騒動が起きたのと同じで、書かれている騒ぎの様子もそっくりだったものだから、うちの社員に間違いないということになって、過去のツイートも読まれてしまった。そこに、上司の悪口がたくさんあったというわけだ。匿名だから安心していたのか、上司や会社について詳しいことを書いていたせいで、割と簡単に本人特定をされてしまった。

 わたしにも、覚えがある。匿名ツイッタラーは、無防備に何でもすぐに書く。雷が鳴った、地震で揺れた、間抜けな失敗をした、腹立たしいことがあった……。

 これだ、と思った。奥さんに、彼女が特定できるようなツイートをさせるのだ。

 さてどうすればいいか、考えに考え、練りに練った。そうして待っていた機会が、今日、とうとう訪れたというわけだ。

「じゃあ、またね。おやすみ」

 家に帰っていく祐くんを見送ったあと、すぐにツイッターを開いた。フォローしたばかりのサニーは、あれから何もつぶやいてない。

 わたしは彼女のツイートに、リプライをつけた。

『サニーさん、はじめまして。フォローさせていただきました。わたしも宅配便で嫌な目にあったことがあるので、お気持ちわかります。お荷物、早く戻るといいですね』

 送信ボタンを押すときには、少し指が震えた。

<第3回に続く>