主婦業に誇りを感じていたはずが… じゃりじゃりと音を立てながら、心を蝕む不快感の正体/気がつけば地獄⑤

文芸・カルチャー

公開日:2021/5/5

気がつけば地獄』から厳選して全6回連載でお届けします。今回は第5回です。『レタスクラブ』での大人気連載がついに書籍化! 薄氷の夫婦関係、許されぬ恋、ありえない友情――その友情もその愛も、決して芽生えてはいけなかった。冷え切った関係の夫婦の前に現れたひとりの女。一体彼女は何者…? 予測不可能、衝撃展開のサスペンス!

「気がつけば地獄」を最初から読む


気がつけば地獄
『気がつけば地獄』(岡部えつ/KADOKAWA)

 目覚まし時計が鳴る一分前に目が覚めた。今日は週に三日勤務しているパートの日なので、少し早めの起床だが、少しも辛くはない。宅配の荷物のことで抱えている憂鬱も、家族の朝食と晴哉の弁当の用意をしているうちに霧散して、代わりにむくむくとやる気が漲ってくる。

 仕事は近所のイタリアンレストランのホール係で、ランチ営業時間の三時間だけだが、わたしにとっては母親や妻といった役割から離れられる貴重な時間だ。こう言ってしまうと、まるでいやいや主婦業をやっているようだが、そんなことはない。それどころか、かつて専業主婦はわたしの憧れだった。事務員として働いていた会社員時代、どれほど頑張っても評価されない仕事にはやりがいを持てなかったし、手当もなく三十分も早出をさせられるお茶当番にも、挨拶代わりの上司のボディタッチにも、宴席でさせられる酌婦役にも嫌気がさしていて、そんな世界から脱出する道として、専業主婦になるという夢が心の支えだったこともあるのだ。

 だから、晴哉の出産前に退職したときは、本当に嬉しかった。最後の挨拶をして社屋を出るときには、心の中で万歳三唱をしたくらいだ。翌朝、いつものように忙しなく朝の支度をする祐一に、すっぴんのままコーヒーを淹れてやりながら、生まれ変わったような喜びに満たされた。

 かつては溜めてはしていた洗濯を毎日し、ゆっくり時間をかけて掃除をして、料理も毎日手間をかけた。収入が減った分の家計のやり繰りを考えるのも、楽しかった。こうして、共働きのときには分担していた家事を全部するようになったが、それこそがわたしが望んだ主婦業という仕事だと、誇らしい気持ちだった。

 一方で祐一は、家では縦の物を横にもしなくなった。わたしがやるのだから、当然だ。ところが不思議なことに、おそらくそれがきっかけで、いつしかわたしの胸の中に砂粒のような不快感が入り込み、じゃりじゃりいうようになった。理由はわからない。祐一に言ってはいけないような気がして黙っていると、じゃりじゃりは少しずつ増えていった。

 砂粒の正体がわかったのは、晴哉が生まれたあとのことだ。夫婦に育児という大仕事がのしかかってきても、家のことを一切しようとしない祐一から、醸し出されていた威圧のようなもの、それがわたしを少しずつ押し潰していたのだ。

 確かに今、我が家の生活費の稼ぎ手は彼一人だが、失ったわたしの収入分を、倍働いて補っているというわけではない。祐一は以前と何も変わらぬ会社勤めのまま、それまで自分が担ってきた家事労働をすべてわたしにさせて、自分一人が楽になったのだ。そしてわたしは、全ての家事と育児を一手に背負うことになり、会社員時代に比べて労働時間は倍以上、睡眠時間は半分以下、自分のために使える時間はゼロになった。

 美容院に行く時間もなく、伸びっぱなしの髪で化粧もせずに働くわたしを、祐一は「偉いな」と褒めてはくれても、頼まない限り手を貸そうとしなかった。頼めば文句も言わずやってくれる。しかし「頼んでやってもらう」ということは、わたしの体を楽にしても、心を楽にはしなかった。子育てする中で何十回と発せられた「ありがとう」は、わたしから祐一への一方通行だった。「俺が食わせてやっている」とでも言うような威圧に、しかしわたしは抵抗できなかった。代わりに猛烈に、稼ぎたいと思った。そんなことを思うのは、生まれてはじめてのことだった。

 晴哉が幼稚園に入ると同時に、パートで働き始めた。週三日だけでも、アイロンを当てたシャツを着て、メイクもきっちり施して表に出るようになると、自信が戻ってきた。家事分担について祐一にもちかけてみると、快く応じてくれた。半々とはいかないが、家にいる間は積極的に晴哉の世話をしてくれるようになったのだ。

 そうだ、彼は元々そういう人だった。そんなところを好きになって、結婚したのではないか。なのにわたしは何にこだわって、一人で息を詰まらせ、苦しんでいたのだろう。

 ところが、幸せな気分は束の間だった。祐一の在宅時間が、日に日に減っていったのだ。大きな出世をしたわけでもないのに仕事が増え、残業や勤務時間外の接待のために帰宅が遅くなった。以前はほとんどなかった出張も、頻繁になった。

 彼ができなくなった育児は、彼から〝お願い〟されることもないまま、再びすべてわたしがやることになった。会社の仕事の都合なのだから、しかたがない。祐一のせいではない。わかっているのに、自動的に当然のこととして流れていってしまうそうしたことが、また一粒一粒の砂になって、胸の中でじゃりじゃりと音をたてた。

 そんな状態が続いているが、パートを辞める気はない。家と家族から解放される時間と、わずかであっても得られる収入は、今のわたしにとって大きなものだった。

 晴哉を幼稚園に送ったあと、いったん帰宅して、出勤の身支度をする。制服はないが、上は白いシャツ、下は黒のパンツと決められている。着替え終えると、シャツの襟元からきれいに見えるネックレスを着ける。化粧は薄めに、しかしマスカラとアイライナーはしっかりと施す。目元がきりっと上がると、気持ちにエンジンがかかる。

 家を出て、エレベーターに乗る頃には、無意識に鼻歌を歌っていた。何の歌か、すぐに思い出せない。一階に着いて扉が開いたとき、晴哉が好きなアニメのテーマ曲だと気がついた。最後に自分の聴きたい音楽をダウンロードしたのは、いつだったろう。スマートフォンの中は、晴哉向けの動画や音楽ばかりだ。

 エントランスの自動ドアを抜けると、ポーチに引越し業者のトラックが横づけされているのが見えた。入居者だろうか、それとも退去者だろうかと、考えながら通り抜けようとしたとき、背後からふいに肩を掴まれ、力強く引っ張られた。重心を失ってよろけながら、甘苦いシトラスの香りを嗅いだ。その鼻先を、スチールラックの脚が掠めていく。冷やっとした瞬間、わたしは誰かに抱きとめられた。

「ふう、危なかった」

 耳元で低い声がした。体を離して向き直ると、引っ張られた力からは想像できない、ほっそりした若い男が立っていた。最初に目に入ったのは、やり場がなさそうに癖のある前髪に触れている繊細な指と、まくり上げられたシャツの袖口から見える引き締まった腕だった。先ほどの香りを思い出してぼうっとしていると、

「大丈夫ですか?」

 男が小首を傾げ、わたしの顔を覗き込むような仕草をした。指と同じ、繊細そうな細面の顔。

「あっ、すみません。大丈夫です」

 わたしが言った途端にそれは破顔し、薄い唇から整った歯を覗かせた。

「よかった、素敵なお洋服が汚れなくて」

 男が言った。この格好を誰かに褒められるのは、はじめてのことだった。

「ありがとうございました」

 抱きとめられた感触を思い出しながらそう返すと、前髪の下から覗いた丸い目がふわっとアーチを描き、笑顔をさらに淡く輝かせた。

 男は軽くうなずいてから、トラックのほうへ行き、スチールラックを荷台に積み込んでいる作業服姿の男たちと言葉を交わした。

「うしろ、すいませーん、通りまーす」

 さらに背後から、段ボール箱が運び出されてきた。退去なのだ。残念に思う気持ちが、ほんのりと胸を掠めた。

 駐輪場から自転車を出す間、頭からあの笑顔が消えなかった。自分が微かにときめいていることに動揺する。振りほどくように自転車を漕ぎ出すと、街路樹のイチョウの葉が、頭上でさわさわと音をたてた。ペダルを強く踏み込み、スピードを上げる。

 わたしは幸せなのだ。夫と息子、三人で見る温かい夢が満ちた家庭。他に望むものがあるだろうか。

 赤信号で急停車したとき、ペダルがパンツの裾にぶつかってしまった。ついた泥を手で叩くと、灰色の汚れがよけいに広がった。かっときたのと同時に、届かない美顔器のことを思い出し、胸の中がじゃりじゃりと騒いだ。

 

 仕事が終わったあと、晴哉を幼稚園に迎えに行き、急いでマンションに帰った。

 早く603号室に連絡しなくては、と気を急かしながら、エントランス奥にある集合ポストを確認していて、新しくマスキングテープで投入口を塞がれたポストに目が留まった。テープは、空室にチラシを投函されるのを防ぐためのものだ。今朝退去していった、あの男の部屋に違いない。

 どこに住んでいたのだろう、と部屋番号を見て、思わず「うそっ」と声が出た。603号室だったのだ。

 あの笑顔が頭に浮かんだ。抱きとめられたときの感触が甦った。低く柔らかな声と、甘苦いシトラスの香りも。

 晴哉の手を引いてオートロックの入り口を抜け、エレベーターに向かいながら、混乱する頭を懸命に整理した。あの男が603号室の住人だったということは、わたしの荷物は彼が受け取っているはずで、昨日わたしがドアポストに入れたメッセージも読んでいるはずだ。引っ越すなら、なぜその前に連絡してくれなかったのか。

 もしやと思い、三階に着くと通路を急いだ。留守にしている間に、連絡をくれているかもしれないと思ったのだ。しかし、玄関のドアポストの中は空だった。

 メッセージを読んでいないのだろうか。それ以前に、荷物の確認はしていないのか。そしてそのまま、わたしの美顔器を持って引っ越ししてしまったのか。だとしたら、今頃転居先で気がついているかもしれない。そうして宅配業者か、送り状に書かれたわたしの携帯電話番号に、今まさに電話しようとしているところかもしれない。

 また、あの男の笑顔を思い出した。もしも彼が、わたしのように送り状など確認せずに箱を開けてしまったら。中身を見られてしまったら。恥ずかしさで顔が熱くなる。

 しかし、電話は鳴らなかった。すぐに出られるようスマートフォンをパンツのポケットに入れて、晴哉におやつを与え、洗濯物を取り込み、それを畳んでも、鳴らなかった。

 もう待っておれず、コウノトリ便に電話をかけた。誤配達されたことを説明し、603号室の住人から連絡は来ていないかと訊ねたが、ないと言う。ならばそちらで対処して欲しいと頼むと、一旦電話を保留にされたあと、どちらの荷物も受け取りサインを受領済みで配達を完了しているので、関知しないと断られてしまった。

 配達員のミスなのに、そんな対応があるだろうかと腹が立ったが、サインがあると言われてそれ以上反論できず、電話を切った。

 しかたなく、マンションの管理会社に電話をし、603号室から引っ越していった住人の連絡先を訊ねた。しかし、事情を言っても「個人情報は教えられない」の一点張りで、取り合ってもらえなかった。

 途方に暮れてスマートフォンの画面を見つめていると、ツイッターからの通知が表示された。返信コメントがついたのだ。開いてみると、昨日フォローしてきたナナからだった。『大切なお買い物の品、早く戻るといいですね』と、心配してくれている。読むうちに、不安と腹立ちで締めつけられていた気持ちが、少し落ち着いてきた。祐一はSNSにはまる人たちを馬鹿にするが、誰にも相談できないという不安も鬱憤も持たない彼には、こうして匿名で人と交流することで救われる気持ちがあるということは、一生わからないだろう。

 ナナのコメントに「いいね」をつけ、新規のツイートを打ち込んだ。

『身近な人の無関心に日々傷ついているせいか、見知らぬ人の優しさが身に沁みる今日この頃です』

 読み返し、「身近な人の無関心に日々傷ついているせいか、」の部分を削除してから、投稿した。

<第6回に続く>