同級生女子のヘビーな話に硬直…女子とふたりっきりでしゃべってるなんて/一穂ミチ『スモールワールズ』③

文芸・カルチャー

公開日:2021/5/2

6つの家族の光と影を描き出す6編からなる連作短編集『スモールワールズ』。本書に収録された1編「魔王の帰還」を全6回でお届け。「魔王」とあだ名される姉がなぜか実家に出戻ってきた! 高校生の弟はそんな姉に翻弄されながらも姉の「秘密」が気になって…。

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スモールワールズ
スモールワールズ』(一穂ミチ/講談社)

 姉がしゃがみ込むと、そよそよ水中をたなびいていた金魚の隊列が一斉に乱れて散っていく。そりゃそうだ、人間だって逃げ出すもんな。

「反対側で構えたほうがいいですね。水槽に影が落ちるようにして、しばらくじっとしててください。金魚が、安全だと思って寄ってくるんで」

「案外賢いんやの」

 姉は水槽の向かい側に移動し、殺し屋のような目つきで獲物に狙いを定めポイを突っ込んだが、すくい上げるより先に金魚の抵抗であっけなく破れた。

「おえん!」

「こつがあるんですよ」

 本気で悔しがる姉の隣に菜々子がすっと屈み、新しいポイを大胆な手つきで水中に沈める。

「濡れた部分と乾いてる部分があるから破れやすくなるんです。こうして全部濡らしちゃえば意外と大丈夫。構えは水面に対して水平じゃなくて縦、魚を追いかけるんじゃなくて迎えに行って、器の中に誘導する感じで……」

 こう、と手首をひらめかせるとあっという間に三匹の金魚をゲットしてしまった。

「おお、すげえ」

「うまいもんじゃのう」

「こんなのすぐできるようになりますよ」

 菜々子は照れつつ「お茶入れてきますね」と立ち上がり、カーテンの向こうに消える。すると姉が顎をしゃくって無言で追うように命じた。「え、なに」と小声で問うと「てごうせえちゅうとんじゃ」と怒られた。

「わしゃあ金魚を観察しとるけぇ、しばらくふたりでご歓談せえ」

 手伝えと言われても。小上がりのところでうろうろためらっている間に、菜々子が戻ってきた。

「お姉さんは?」

「や、あの、金魚見てるからちょっとそっとしといてほしいって」

「ふーん、じゃあ森山くんだけでも麦茶どうぞ」

 座れば、と言われ、そろそろと隣に腰を下ろしてグラスを受け取る。女子とこんなに接近したのも、会話したのもいつぶりか覚えていないので何の話題も浮かばなかったが、とにかくこの空気を肺がはち切れるほど吸い込んでおかなければとは思った。

「いいお姉さんだね」

 即座に肯定するにはなかなか抵抗のあるお言葉だったので黙っていると、菜々子は「自分がかばってもらったから言うんじゃないよ」とつけ加える。

「金魚の死骸捨てた時、手合わせてたでしょ。わたしは慣れちゃって何とも思わなくなってたから、ちょっと反省した。見た目インパクトあるけど、優しい人なんだね。でもお姉さんだけ訛ってるのはどこの方言? 『おえん』ってどういう意味?」

「岡山。『おえん』は駄目とか手に負えないとか、そんな感じ。親の仕事の都合で、姉ちゃんが小学校卒業するまで暮らしてて、未だにひとりだけ抜けてない」

「そうなんだ。似合うし、いいんじゃない?」

 花柄のグラスから麦茶をひと口飲むと「わたしは去年の秋に越してきたんだ」と言う。

「親が離婚して母親に引き取られたのが小五の時、お母さんが再婚して新しいお父さんと暮らし始めたのが中二の時─お父さんが夜、ベッドの中に潜り込んできて服を脱がそうとしたからスマホの角でがんがん頭殴って股間蹴って、夢中で逃げたのが去年の夏」

 いきなり話がヘビーになり、鉄二は何のリアクションも取れずに硬直したが、菜々子は特に反応を求めるでもなく話し続けた。

「それでもお母さんはお父さんと一緒にいたいんだって。わたしだけおばあちゃんちに引き取られて、お母さんは、娘を捨てたって言われたくなかったんだろうね、『菜々子が夫を誘惑するから置いとけなくなった』ってあちこちに言いふらしたの。もちろんおばあちゃんは怒ったし、信じない人がほとんどだったけど、駄目だね、こういうのは。十人中ひとりでも真に受けたらおしまいなんだよ。あっという間に拡散されて事実になるの」

 だからヤリマン呼ばわりされ、クラスでも腫れ物扱いになったというわけか。しかし気怠そうに片膝を抱えた菜々子の口ぶりに悲愴感はない。ショートパンツから伸びる脚は、姉と同じ生き物とは思えないほど頼りなかった。

「お姉さんみたいに怒って訂正して回ったらいいのかもしんないけど、なーんかやる気出なくてさ」

「わかる」

 考えるより先に口にしていた。ぽろりとこぼれたそのひと言は鉄二自身思いもよらないほどの確信に満ちていて、菜々子は目を見開きじっとこちらを見つめている。あなたに何が? と問いかけている。「何でもない」とごまかすのは不可能だった。鉄二は麦茶のグラスが自分の手のひらをじっとりと湿らせるのを感じながら、たどたどしく言葉をつないだ。

「気持ちで勝つとか負けるとか、あるから」

「体育会系でよく言うやつ?」

「うん……お母さんは、新しいお父さんとうまくやっていきたくて、そのためなら嘘ついて娘をディスってもいいって思った。いい悪いじゃなくて、その気持ちの強さに住谷さんは勝ててないんだと思う。住谷さんの、ここで楽しくやっていきたいみたいな気持ちが。だから力吸い取られてやる気出なくなる。気持ちって物理なんだと思う」

 菜々子は瞬きもせず鉄二の話を聞いていた。やがて片膝を抱えたまま背中を後ろに傾け「そっかー」とつぶやく。

「気持ちで負ける、かあ。そうだね。わたし、お母さんみたいになりふり構わないのって無理だ。うん、納得した」

 ああよかった、見当違いなこと言ってないみたいで。ほっとしたのも束の間、「これからどうすればいいと思う?」とさらに突っ込まれ答えに窮した。スマートに回答できるほどの頭も人生経験もないので「楽しい思い出を作る?」と質問口調で返すしかなかった。菜々子は落胆した様子は見せず「なるほどー」と笑う。夢じゃないかな、と思った。つい数ヵ月前まで汗と涙と男と野球しか世界には存在しなかった、そんな俺が、女子とふたりっきりでまあまあまともにしゃべって、笑いかけてもらってるなんて。でも菜々子は陽射しが雲に遮られるようにふっと笑みを翳らせ、言った。

「春休み、上履き持って帰るの忘れてて、学校に取りに行ったんだよね。雨だったからバド部が廊下で室内練習してて、顧問が『新学期からやばいのが転校してくるぞ』って笑いながら話してた。『高校球児だけど、暴力事件起こして春の選抜出場濃厚だったのにぶち壊して、学校にいられなくなったやつ』」

 なるほど、と今度は鉄二が納得する番だった。始業式の段階で見た目以上にびびられている実感はあり、田舎は噂が早いってまじだな、とぼっちの高校生活を覚悟した。情報源が判明したところでどうにもできないが。

 まじ最悪、と菜々子が嫌悪をあらわにする。鉄二は迷ったが「でも、俺の場合嘘じゃないから」と打ち明けた。

「え?」

「暴力事件も、甲子園駄目にしたのも、ガチ」

 それは事実で、ただ、鉄二の中にある「本当のこと」はそれだけではなかったが、自分自身整理のついていない出来事をきちんと説明できる自信がなかった。はっきり言うと、感情が昂ぶって涙ぐんでしまったりすると恥ずかしい。菜々子はしばらく探るように鉄二を見ていたが、やがて「そう」と軽く頷く。

「けどわたし、森山くんのこと怖くないよ。あのお姉さんの弟だし、大丈夫だと思う」

 自分の人間性が、あの魔王によって担保されるというのは何とも複雑な心境だった。噂をすれば当の姉がカーテンを開け、でかい身体を押し込め出てくるなり「菜々子、あれは何なら」と問う。

「金魚すくい選手権ちゅうポスターが貼ってあったぞ」

「ああ、毎年八月にあるみたいですよ。県外からも結構参加者きて、一応地元の一大イベント的な」

「どうやって出たらええんじゃ」

「三人ひと組で三千円払えばエントリーできますけど。うちの店にも用紙置いてます」

「よし」

 姉が腕組みすると、半袖のポロシャツからは小学生の太ももくらいの上腕二頭筋が盛り上がる。

「出るぞ、鉄二。目指すは優勝じゃ」

「は?」

「何か目標がないと若者は腐るけぇ。心配せられな、もちろんわしも一緒に出る」

「それが一番心配、つかいやなんだよ!」

「あのー」と菜々子が遠慮がちに片手を上げる。

「三人目は?」

「もちろん菜々子じゃ」

「まじですか?」

 なぜか嬉しそうだった。

「え、住谷さん、いいの?」

「だって森山くん、楽しい思い出作れって言ったじゃん」

 作れ、とは言っていないし、楽しい思い出になるのかも怪しい。しかし姉が何かを決めた時に弟から口を差し挟む余地は金箔一枚分もなく、十七歳の夏の目標が強制的に設定されてしまった。

<第4回に続く>

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