ウェディングプランナーの輪花が出会う不気味な男、そして巷で起こる連続殺人事件の真相は――? 【土屋太鳳 × 佐久間大介 × 金子ノブアキ 映画「マッチング」原作小説試し読み】

文芸・カルチャー

公開日:2024/2/22

2月23日(金)に全国の映画館で公開の映画「マッチング」。
内田英治監督による書き下ろし小説も発売中です。
原作小説の冒頭部分を2万字以上大公開!
映画では描かれなかったあの真相や、登場人物の心情……。
原作小説でも「マッチング」の世界を、隅々まで堪能してください!

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土屋太鳳 × 佐久間大介 × 金子ノブアキ
映画「マッチング」原作小説試し読み

プロローグ

 暗闇の中にひとりの男の背中が浮かび上がり、手にした物体から発せられた光はその顔を淡く包んでいる。男は闇でスマホを見つめるのが好きだった。液晶画面を見ていると、この世に生まれた赤ん坊の頃を思い出すからだ。年齢的にはそんな幼少時の記憶などあるわけはない。しかし、男は確かに覚えていた。
 あの日、暗闇の中、外からはわずかな光がこぼれていた。氷のように冷たいドアの外からはけたたましい電車の音と、人間の足音が聞こえ続けた。
 あの感覚を忘れる日は来るのだろうか。
 それはきっと自分の孤独を、究極の愛が包んでくれたときだろう。
 男が見つめているスマホには噓だらけの愛が次々にスクロールされて表示されてゆく。
〈#アプリ婚〉というキーワードで検索されたカップルたちが笑顔をき散らしている。
 はしたない連中だ。男はそう思いながらスクロールを進める。
 男にとって愛とは長い時間をかけてはぐくむものだった。スマホやパソコンで簡単に手に入るものではない。ましてや金で買えるものでもない。
 汚れている。
 時代で片付けたくはなかった。いにしえの時代、イエス・キリストは考えた。神は人間を男と女に分けて創作し、やがてひとつになってゆくことを祝福したのだ。結婚とは神が定めた運命であり、たやすく結ばれてはいけない。
 男の指は一組のカップルで止まった。
 ドレスを着た新婦は知性的な雰囲気をまとっており、新郎はスポーツマンタイプでがっしりとした体格だ。写真が撮られたのは新婚旅行なのだろう。海外だろうか。男は日本を出たことがなかったので、想像を巡らせた。ハワイなのか、それともヨーロッパの国々なのか。
 景色の演出もあってか、とても幸せそうに感じられた。
 しかしこの二人は罪深い男女に違いない。
 出会いは自然でなければならない。
 しかしこの二人は軽薄なアプリ婚なのだ。
 であれば、罰を与えなければならない。
 男の目は、その後もしばらく手元の新婚夫婦に注がれていた。

第一章 祝福

    1

 ふと自分の表情が険しくなっていないかと不安に思い、ただしまりんはひと気のないドアの前で、そっと立ち止まった。
 息を整えて、顔の筋肉を緩める。やはり自然と歯を食い縛る形になっていたようで、あごからスッと力が抜けるのが分かった。
 表情をリセットし、笑顔を作る。式場では常に笑顔でいることが、自分の役目だ。
 このドアの向こうにいるのは、結婚式を間近に控えた新郎。そして、輪花の高校時代の恩師でもある。
 断じて──かつての、片想いの相手ではない。
 そう自分に言い聞かせ、輪花はウェディングプランナーとしてのいつもの笑顔で、控室のドアをノックした。
「失礼します」
 努めて明るく声をかけると、すぐにドアの向こうから「はい」と返事があった。
 ドアを開ける。鏡の前に座っていた純白のタキシード姿の男性が、ゆっくりとこちらを振り返った。
 オールバックにでつけた髪の下に、緊張と期待に満ちた柔和な顔がある。彼の名は、かたおかはやという。
 今でも地元の高校で教師を続けている。あの頃と変わらず、天文部の顧問だそうだ。歳は──輪花が彼にあこがれていた時は二十代後半だったから、今はもう四十手前のはずだ。
「片岡様、何か問題などございませんか?」
 式の直前のチェックだ。ついさっき新婦の控室でも同じ質問をしたら、突然ブーケの色を変えたいと言われた。
 もちろん笑顔で対応した。駆け込んだフラワールームでは、スタッフに「今からですか?」と渋い顔をされた。
 いや、もっと言えば、さらにその直後に同僚から呼び止められて、「ご親族で甲殻アレルギーのかたがいるらしいんだけど、どうする?」と、輪をかけて「今から?」な案件をぶつけられた──。このタイミングでトラブルが重なって、すっかり表情が硬くなっていた。断じて、片岡の結婚に思うところがあったわけではない。
「大丈夫だよ」
 片岡が軽く微笑む。かつて輪花が胸躍らせた微笑みだ。
「いや、それにしても──教え子に結婚式を取り仕切ってもらうなんて感慨深いよ。ありがとう」
 繰り返し礼を言う片岡に、輪花の表情が緩んだ。
 作った笑顔ではない、自然な微笑みが浮かぶ。それでも、「教え子」という当たり前の肩書きから最後まで抜け出せなかったことに、一抹の寂しさを覚えながら。
「先生、本当に、おめでとうございます」
 改めて、輪花は彼を祝った。
 ただ、控室を出てからふと真顔になり、今一度気持ちを落ち着かせる必要があった。

「なんかさ、つくづく因果な商売だよね、うちら」
 休憩時間──。屋外の目立たない場所に設けられた喫煙スペースで煙草をふかしながら、同僚のとうなおが愚痴をこぼした。ショートボブにまとめた髪が、式場内を駆け回っていたせいで、絶妙に乱れている。
 輪花は隣に立って、缶コーヒーを片手に、「ふぅん」と小さくあいづちを打った。輪花自身は煙草は吸わないが、尚美に付き合って、ここにいる。
「毎日毎日人様の結婚をお祝いしてさ。結婚のプロみたいな顔してるけど、まあ独身だし」
 いつも聞かされる愚痴だ。尚美はすでに三十代も半ば。まだギリギリ二十代にとどまっている輪花と違って、焦りがあるのかもしれない。
 もっともこの仕事をしていれば、遅咲きのカップルを祝福することなど、いくらもある。その辺は尚美も分かっているはずだが。
「輪花、他人ひとごとみたいな顔してるけど、あんたの話だからね?」
「あ……私なのね」
 そういう流れの会話か。輪花は顔をしかめ、小さくめ息をついた。
「今日なんてさ、好きだった人の結婚式をアテンドしなきゃならなかったんでしょ」
「からかわないでよ」
「片岡さん。人生で一番好きになった人だよね?」
「もう昔の話だよ……」
 ──私、そんな表現したっけ。
 親しい同僚同士、酒の席で過去の恋愛歴を披露し合った時、自分が片岡のことを具体的にどう話したかは、もうよく覚えていない。
 ただ、「人生で一番」は言いすぎだと思う。今後自分が、一切恋愛をしないならともかく。
 ──いや、しないかもしれない。
 輪花はふと、そう思った。
 昔から恋愛が苦手だった。過去に、輪花を好きだと言ってくれた男性は何人かいたし、素敵だなと感じた男性もいた。大学時代には、そんな男性の一人と付き合ったがすぐに別れた。
 なぜか──本気の恋愛には踏み込めなかった。
 男性と関係を深めることに、どうしても抵抗があった。別れることになったらどうしよう。裏切られたらどうしよう。そんな不安が常に心に付きまとい、あと一歩を踏み出すことができなかった。
 そう思うと──確かに、片岡一人だけなのだ。自分が本気で好きだと感じた男性は。
 ……もし生徒と教師の関係でなければ、あるいは。
「輪花、もうそんなのとっとと忘れて、いい加減前に進みなよ」
 尚美の声に、輪花はふと我に返った。
 隣を見ると、尚美の目がどこか愁いを帯びて、こちらを見ていた。
 からかわれていたのではない。心配されていたのだ、と気づく。
 普段は軽く振る舞っているのに、こういう時になると、案外気遣ってくれる。ありがたいけれども、読みづらい。
 輪花はしかめっ面を装ったまま、「もういいから」と言い返した。
「休憩時間、終わりだよ。先に戻ってるね」
「あ、輪花待って。ねえ、例のアレ──」
「……アレ?」
 何の話だっけ、と振り返ると、尚美が大真面目に言ってきた。
「この前勧めたアプリ、入れた? ウィルウィル」
 今世間で話題のマッチングアプリだ。輪花のしかめっ面が、装いから本気に戻った。
「そんな暇ない」
 そう言い残し、輪花はオフィスに戻っていった。

    

 唯島輪花がウェディングプランナーとして勤めている「ナガタウェディング」の式場兼オフィスは、彼女の自宅から一時間ほどの場所にある。
 本社はみなと区にあり、業界では最大手とされる。ただし輪花が勤めているのは、もともと他の地区に古くからあった式場を会社が買い取り、ブライダル事業の支社として扱っている場所だ。
 提供するサービスも基本的に式場と一体化しているため、どちらかと言えば地域密着型のイメージが強い。本社が国内外のリゾート婚を大々的にうたう一方で、輪花が受け持つのは、そこまで予算をかけずとも人生に一度のハレの日を盛大に祝いたいという、庶民的な披露宴がメインだった。
 輪花はここに入社して、かれこれ七年目になる。
 ──輪花には人を幸せにする力があるよ。
 かつてそう言ってくれたのは、片岡だった。どういう流れで出た言葉だったかは、今となっては記憶があいまいだが、三年生の時に行った天文部の合宿でのことだ、というのははっきり覚えている。
 当時、自分の進みたい道がなかなか決まらず悩んでいた輪花にとって、片岡のこの言葉は、まさに天啓だった。少なくとも、輪花が今の仕事に就くきっかけになったのは、間違いなかった。
 もっとも高校時代は、ウェディングプランナーという仕事の存在など知らなかった。だから、ただ漠然と「人を幸せにする仕事」に就きたいと思っただけだった。
 今の仕事を知ったのは、大学二年生の頃──父が勤務しているホテルに、忘れ物を届けに行った時のことだ。
 フロントに事情を話して忘れ物を預けようとすると、不意にロビーの向こうから金切り声が飛んできた。何だろうと振り返ると、ちょうど純白のドレスに身を包んだ花嫁が、やはり純白のタキシード姿の新郎をにらみ、これでもかと不満をぶつけているところだった。
 式を目前に控えた夫婦げん、といったところか。しかしそのいさかいに、すかさず割って入った人物がいた。
 スタッフとおぼしき若い女性だった。彼女が笑顔で花嫁に何か言うと、次第に花嫁は落ち着きを取り戻し、決まり悪げに微笑んだ。表情を曇らせていた新郎も、笑顔に戻った。
 その瞬間、輪花は「これだ」と感じた。自分が就くべき仕事はこれなのだ、と。
 それが、ウェディングプランナーだった。
 ウェディングプランナーとは、簡単に言えば、結婚式のまとめ役のようなものだ。新郎新婦の要望に沿って、式の日取りや予算を調整し、会場やスタッフを手配する。他にもドレスや料理の選定、当日の演出など、取り決めることは多い。
 もっとも輪花が勤めている支社の場合、会場やスタッフなどはすでに自前で用意されているから、まだ楽だとも言えた。
 本来ウェディングプランナーという仕事に規模の下限はなく、中には個人事業としてやっている人もいる。そういうケースだと、各地の式場やレストラン、教会、神社などに営業をかけて関係を作るところから、すべて自力でやらなければならない。想像以上に大変な仕事だ。
 いや、もちろん輪花が大変な思いをしていないわけではない。今日のトラブル──直前でのブーケや料理の変更──などは序の口で、ひどい時は、式の当日にカップルが大喧嘩して、早くも離婚寸前に陥った、ということもあった。
 初めてカップルの喧嘩に直面した時、輪花はまだ新人もいいところだった。それでも表情だけは動じさせることなく、二人の仲裁を懸命に勤め上げた。結果的にカップルは仲直りし、式も無事執り行えた。それが輪花の自信につながったのは、言うまでもない。
 今では勤続七年。主任コーディネーターというポジションで、充実した日々を送っている。トラブルは多いものの、カップルの笑顔にはいつも報われる。だから、今の仕事に一切不満はない。ないのだけど。
 ──今夜ばかりは、ちょっと飲みたいな。
 片岡夫妻を笑顔で式場から送り出した後、輪花は猛烈に、そんな気分に襲われたのだった。
 とりあえず同僚の尚美に声をかけたが、予定があるからと断られた。
「私じゃなくてさ、男を誘いなさいよ」
 あきれたようにそう言われたが、あいにく一緒に飲むような男性はいない。
 ……いや、一人いたか。
 輪花はふと思い直して、「彼」に電話してみた。
 聞けば、仕事で少し遅くなるが、合流できるという。なので、自宅近くの居酒屋で待ち合わせることにした。

    ×

 男はゆっくりと口を開いた。
「これから、あなた達の愛を確かめさせてもらいます」
 そう言うと、目の前に横たわる男女がすがるような視線を、こちらに向けた。
 愛。その言葉を口にすると、脳の一部がいつも反応してしまう。自分が、いやすべての人が人間である限り、他者に求めてしまうもの。しかし真実の愛はやすく手には入らないものなのだ。
 今日こそ、目の前にいる夫婦が真実の愛を見せてくれるのかもしれない。
 明かりの落ちたリビングに、ジャラ、と鎖の乾いた音が鳴る。二人の両腕と両腕、両足と両足を、それぞれ一本ずつの鎖が固く繫いでいる。
 拘束してから数時間。今やこの夫婦を結びつける鎖は、彼らの皮膚を擦り、かせ、血をにじませているだろう。
 初めは威勢のよかった猿ぐつわ越しのうめき声が、だいぶ弱くなっている。このままでも放っておけば衰弱死するかもしれないが、そこまで長時間放置するつもりはなかった。
「助かるのは、一人」
 改めて、彼らに「ルール」を説明し始めた。
「一人が死ねば、もう一人は助けます。どちらが死ぬか、自分達で決めるのです。ただし選択権を与えるのは一度きり。三秒与えます」
 そう言って、ポケットから大ぶりのカッターナイフを取り出した。
 ギリギリギリ、と刃を伸ばす。二人の呼吸が荒れるのが、すぐに分かった。
「あなたたちの足は縛られていますが、足首だけは動かせますね。死ぬべきは夫だ、と思ったら右足で床を鳴らす。死ぬべきは妻だ、と思ったら、左足で床を鳴らしてください」
 なんて慈悲深いのだろう、と我ながら思う。
 べつに自分は、この夫婦を惨殺したいわけではないのだ。ただ二人の愛を確かめ、それが本物であることを証明したい──。本当に、ただそれだけだ。
 二人が真に愛し合っているなら、答えはすぐに出せるだろう。だから間髪をれず、すぐカウントダウンを開始した。
「三、二、一」
 ゼロ、と静かに告げた。
 ……二人とも、足を動かそうとはしない。
 ただうだけのまなしを、涙とともに懸命にこちらに向けるのみだ。
 優しく微笑みを返してあげた。
 即決できないのならば、しよせんその程度の愛だが、怒ってもしょうがない。
「残念です。あなたたちが天に誓った愛は偽物だと、今証明されました」
 まず、妻から殺すことにした。
 呻く彼女に馬乗りになり、猿ぐつわをむしり取ると悲鳴が上がった。
 かすれすぎて外に届く心配もないほどの、弱々しい悲鳴だった。
 ためらうことなくその顔をつかんで、頭を床に押し当て、カッターナイフの先端を、ブツ、と額に刺した。力をめ、がいこつに当たるまで食い込ませ、ゆっくりと斜めに走らせた。
 悲鳴はすぐに途切れ、がっ、がっ、と断続的な呻きが漏れるだけになった。
 刃が右あごまで到達したところで一度抜き、また別方向から額に突き立て、斜めに引いた。
「印」をつけ終え、けいれんする妻の上から離れる。次は夫の番だ。
 胸にまたがり猿ぐつわを取ろうとすると、激しく身をよじり抵抗してきた。
 だがその抵抗は、妻が殺される時にするべきだったのだ。
 それからカッターナイフを顔に突き立て、同じように「印」をつけた。
 フローリングの床に、二人の血の臭いが広がっていく。すでに呻きも呼吸も聞こえず、ただのどの辺りでゴボゴボと泡立つ音だけが鳴る。
 人は、顔を裂かれただけでは死なない。最後に仕上げとして、手首を切るつもりだ。ただ──今夜は慈悲を与えようと思う。
 余っていたもう一本の鎖を、二人の首に巻きつけた。
 一本で、二人の首を同時に。
 もう二度と、互いに裏切ることなどできないように。
「さようなら。末永く、お幸せに」
 そう言って、鎖の先端を両手でつかみ、グッと引いた。
 夫婦の顔の裂け目から血の塊が絞り出され、わずかに飛んだ。
 二人の体は一心同体となったかのように痙攣を繰り返し、やがて事切れた。
 つながり、同時に命を失うことによってこの夫婦は一瞬の愛を得たに違いない。男は目の前に倒れたその男女を、しばらく見つめていた。

    ×

「あとどれくらいかかりますか?」
 西にしやまあかねはタクシーの運転手に聞いた。
 しぶからあおやまに通じる道路が渋滞をしているので焦っていた。
「もう少しかかりますかねー」
 運転手は他人ひとごとのようにつぶやいた。
 渋谷近辺の道路は何十年も工事をしている気がした。このままあと百年くらいは工事が続くんだろうか。西山は長い髪を触りながら窓の外を見やった。
 さっきまで〝重要な用件〟で、喫茶店でお茶をしていた。その相手とは外資系のコンサル会社に勤める男性だ。
 最初の十五分ほどは自分に興味がない雰囲気であった。容姿はそこそこいける方ではないかとひそかに思っていたが、正直無理してそう考えるようにしていたことも否めない。恋愛する相手のステータスも考えそうな外資コンサルの男も、最初は「ハズレ」感を露骨に顔に出していた。彼の顔つきが変わったのは二十分を過ぎたあたりだ。西山の職業を知ったとたんに寄り添う素振りを見せてきた。
「へえ、刑事さんなんですか。そうは見えないですね」
 職業を言うと相手が自分に興味を示し始めることは今までの経験で分かっていた。しかしなるべく職業は隠していたかった。プライベートとはいえ、警察という組織がマッチングアプリに登録している警察官を「はいそうですか」と放置するわけはないのだ。警察とはそういう組織だ。警察官になるときだって散々思想面の調査をされた。家族や趣味など、なんでも把握していたいのだ。マッチングアプリのように不特定多数の者と接触をし、ましてや警察官であると公言することなど言語道断だろう。
 しかし相手が外資勤務ならば仕方ない。数々の条件をクリアしているからだ。
「そうですか? ではどういう雰囲気の女性が刑事っぽいですか?」
 嫌みに聞こえない程度に聞き返した。
「なんかもっとこう真面目そうで笑顔があんまりない感じですかね」
「女性警察官は宇宙人じゃないですよ、普通です普通。笑うし恋だってしますから」
 と西山は笑顔を作った。
 西山は警視庁の捜査第一課に所属する刑事だ。大学を出てやりたいこともなく興味本位で地方公務員試験を受けて警察官になった。派出所勤務からしん宿じゆく警察署の生活安全課に配属され、三十歳を過ぎた頃に本部(警視庁)の捜査第一課へと異動となった。刑事部の仕事は想像以上に厳しく、気がつけば四十歳が目前まで迫っていた。
「たとえば殺人犯を捕まえるときは何人くらいで動くんですか?」
「捜査本部が設置されるので一概には言えませんね。大きいのも小さいのもあります」
「へえ。捜査の指揮は誰が執るんですか? ドラマみたいにキャリアと呼ばれる人たちですか?」
 外資コンサルの男がかなり警察官に興味を示しているようだった。西山はうれしい反面気を引き締めた。自分に興味を示すことと、自分の職業に興味を示すのとはまるで違う意味合いを持つからだ。現に西山は目の前の男の外資コンサルというエリート的な職業に興味を持っていた。
「キャリアの警察官なんて、宇宙人を見るよりレアですよ。滅多にお目にかかれませんから」
 男は笑った。
 一般人が大好きなキャリアとノンキャリの確執の話を面白おかしく多少のフィクションも交えながら話そうと思ったそのとき、スマホが鳴った。
 思わずため息が漏れた。
 画面にはほりと表示されていた。
 堀井けん巡査部長。西山が今コンビを組んでいる刑事でまだ二十代半ばであった。
「ちょっとすみません」
 と席を外した。外資の男は興味津々でこっちを見ている。
「もしもし」
「あ、先輩すか?」
「当たり前でしょ。他に誰が出るのよ」
 堀井は仕事は出来るが天然な一面があり、その度に世代ギャップを感じた。
「すいません」
「で、何?」
「またです」
 一瞬言葉を失った。ここ数ヶ月聞いていなかったから油断したのだ。
「現場は?」
 素早く住所のメモをとり電話を切った。
「すみません、急に仕事が入ってしまって」
「事件ですか?」
 外資コンサルの男の目がきらきらしている。
「まあ、そうですね」
「またぜひお会いしたいです」
「ではこちらからまたメッセージを入れますね」
 そう言い残してタクシーに飛び乗ったのだ。
 結局、渋谷からじんぼうちようの現場に到着するのに三十分以上もかかってしまった。
「遅いすよ」
 堀井が寄ってくるなり言った。
「ごめんごめん渋滞すごくて」
 堀井にはもちろんマッチングアプリで恋人探しをしていることなど話してはいない。
 神保町の古本屋街から少し奥まった場所にあるマンションに入った。東京のちょうど中心といってもいい場所のマンションだ。古くもない。被害者の経済状況をさっと頭にたたき込んだ。
「ここです」
 青いビニールシートをめくって五階の角にある部屋に入った。恋人探しのせいで多少到着が遅れたがまだ鑑識は作業をしていた。
 リビングに入ると、その強烈な光景が目に飛び込んでくる。
 四方を取り囲むクリーム色の壁が赤い鮮血で彩られている。
「何度見てもひどいわね」
「三組目ですよ」
 堀井がでかいずうたいに似合わぬ悲痛そうなまなしで告げる。
 西山は手を合わせるとすぐに遺体の確認を始めた。
 今までも幾度となく光が失われた目を見てきたが、この事件の被害者の状態だけは目をそらしたくなる。損壊という言葉が一番適切なのかもしれない。
 リビングの中央に円形のテーブルが置かれている。結婚のお祝いなのか、夫婦どちらかの誕生日なのか、テーブルの上には豪勢な食事が用意されている。アボカドをメインにしたサラダに、サーロインステーキにスープ、そして柔らかそうなフランスパン。しかしスープにはあふれ出た血がたまり、テーブルクロスの上にこぼれ落ちていた。
 アボカドサラダからまるで腕が生えてきたように、人間のひじが乗っている。テーブルに向かい合って座っている夫婦はテーブルの上で片手を組み合わせていて、二人の手首の部分は小型のチェーンでぐるぐるに結ばれ錠がかけられている。
 異様なのはその姿勢だけではなかった。二人の顔が鋭利なナイフのようなもので切り刻まれているのだ。
「縦十九センチ、横八センチ」
 鑑識がその傷の長さを測りながら口に出して記入をしている。
「致命傷は同じで、手首のどうみやくの切断によるものです。傷口の様子から見ると、手首が切られたのは最後のようですね」
 堀井が顔をしかめながら言った。
「生きているうちに顔を斬るなんて……なんてひどいことするのかしらね」
 口には声を出せないようにガムテープが貼られていた。顔を斬られたときの苦痛は計り知れない。犯人はそれを楽しんでいるのだろうか?
 西山は床に散乱している写真を見つめた。ハワイなのだろうか、新婚旅行の写真や、ドレス姿の写真。どれも幸せを夢見る二人の笑顔が写っている。
「被害者は、この部屋の住人?」
「はい。男はがわこうへい。女は香川。夫婦です。マンションの管理人の話では、つい先月引っ越してきたばかりだった、と」
「新婚?」
「のようですね。先週SNSに写真がアップされたばかりでした」
 そう言って堀井が、自分のスマホを見せた。
 披露宴の会場で、笑顔の新郎新婦が写っている。香川夫妻だ。
 ちょうど同じ写真が、遺体のそばにも落ちている。ただしこちらは、二人の顔がバツ印の形に削られている。犯人が自ら用意して、意図的に置いていったものだろう。
「この写真、検索したらすぐに見つかりました。これまでと同じですよ。被害者夫婦は普段から積極的にSNSでプライベートをアピールしていて、二人のめもしっかり書かれていました」
「……馴れ初め。つまり──?」
「マッチングアプリです」
「またマッチングアプリ、か……」
 予想どおりの答えを堀井から聞き、西山はけんにしわを寄せた。
 一ヶ月前、夏の盛りに世間をしんかんさせ、それから半月を置いて再び発生した「アプリ婚連続殺人事件」。その三件目が、今回また起きてしまったのだ。
「同一犯による連続殺人、ですかね」
 堀井のその言葉に、西山は無言でうなずいた。確かに同一犯としか思えない。鎖で男女二人をつなぐように縛り上げ、鋭利な刃物で顔をバツ印に裂く──。この残忍な手口は、マスコミには一切公表されていない。模倣犯が出るはずがない。
「念のため、使われたアプリを調べといて。犯人の正体に繫がるかも──」
「ああそれなら」
 もう判明してますよ、と堀井が答えた。
 西山が視線を上げる。相手のいかつい顔が、まっすぐに彼女を見下ろした。
「ウィルウィルです」
 ──ウィルウィル。
 今ちまたで人気の、最もメジャーなマッチングアプリ。
「やっぱり、ウィルウィルか……」
 ウィルウィルではないものの、つい先ほどまでアプリでマッチングした男性と会っていたばかりだ。西山は居心地の悪さを感じた。
「モテないやつが手当たり次第に殺してるんですかね」
「昔のホラー映画みたいなこと言わないで」
「すいません」
 そう言いながら西山は再び手を取り合っている遺体を見た。二人の目は開いており、まばたきをすることなくお互いを見つめ続けている。
 現場検証が終わり、早く目を閉じてあげたいと西山は思った。息をしていないとはいえ、愛した者のこんなひどい姿を見たくはあるまい。
「なんとしてでも捕まえなきゃ」
 口ではそう言いながら西山の頭は嫌な予感で破裂しそうになっていた。
「捕まえなきゃ」
 それでも再び口にした。

    ×

 輪花は疲れた足取りで古びた居酒屋に入っていった。疲れた声で「お待たせ」と言いながら、初老の男の正面の席にどっかりと腰を下ろした。
 地味なスーツを着た男性である。かつてはせいかんだった細面も、深いしわが刻まれるようになって久しい。白髪は染めているが、最近は眉毛にまで白髪が目立ってきた。
 輪花は椅子に浅くだらりと腰掛けて欠伸あくびをする。特に上品に振る舞うつもりはない。相手は、どうせ父親だ。
「俺も今来たとこ。今日は団体の宿泊が多くてさ……」
 父の言葉を遮った。
「すみません、しようちゆう水割り、梅入りで! あ、ジョッキで。あとシシャモ!」
「何だ何だ、荒れてるな」
 自分を無視して注文する娘の姿に、父──唯島よしが苦笑を浮かべた。
 芳樹は今年で五十七歳になる。あかさかにあるホテルで、長年ホテルマンとして勤めてきたベテランだ。もちろん結婚式の裏方としての経験も豊富で、そういう意味では輪花の大先輩とも言える。
 もっとも輪花にとっては、父は、あくまで父だ。たとえ自分が大人になっても。
「そりゃ荒れるでしょ。二十九にもなって、週末の飲み相手が父親なんだから」
「まあそう言うな。ほれ、乾杯」
 誘ったのはこちらの方なのだが、特に芳樹が言い返すことはない。いつもこんな具合だから、つい甘えてしまう。
 輪花はジョッキを半分開け、それからはしを突っ込んで、中の梅を念入りにつぶし出した。
 もし目の前にいるのが恋人なら、箸は使わないだろうな──と思いながら、構わず豪快にシシャモにかじりつく。
 苦みの強い頭をみ砕き、プチプチとした卵の粒と一緒に、アルコールでのどに流し込む。芳樹はそんな娘を、何か言いたそうに眺めている。
 何? と目で問う。芳樹が口を開いた。
「いや、お前がその気になれば、相手ぐらい簡単に見つかるだろうって思ってな」
「出会いなんかないってば。どこにも」
「そんなことないだろ。何なら……ほら、マッチングアプリ? とか。俺の若い頃だって、そういうのはあったし」
「お父さんの若い頃にスマホないでしょ」
 ぜんとして輪花は言い返した。マッチングアプリと聞いて、昼間のことを思い出してしまったからだ。
 いや、尚美との会話ではない。それよりもっと前。片岡夫妻の披露宴の会場でのことだ。
 片岡の友人が「運命的な出会いが──」とお決まりのスピーチをしていた時、ちょうど輪花の立っていた近くのテーブルで、若い女性グループが、小声でこんな話をしていたのが聞こえた。
「運命的な出会いって何?」
「アプリらしいよ? マッチングアプリ」
「え、いいな。どこの?」
「ウィルウィルだったかな」
 ──そうか。先生、アプリ婚なんだ。
 通常なら聞き流すだけのおしやべりが、どうしても輪花の脳裏にこびり付いてしまった。
 おかげでマッチングアプリの話題が出るだけで、どうしても過敏に、悪い方に反応してしまう。
 ……いや、べつにアプリ婚そのものを非難したいわけではない。マッチングアプリは、あくまで出会いを提供するツールに過ぎない。そこから交際を進めて結婚に至るかはカップル次第だし、実際片岡と新婦──名前はといった──の関係は、真剣なものだったはずだ。
 ただそれでも、どうしても煮え切らない想いが、輪花の中にくすぶっていた。
 ──アプリの向こうに無数に存在する素性の分からない女達に、なぜ先生は、愛を求めたのだろう。
 ──私は三年間、先生のそばにずっといて、先生も私のことを、とても理解してくれていたはずなのに。
 いや、もう考えるのはよそう。しよせんは卒業と同時に終わった恋だ。
 輪花は深く息をつき、ジョッキの残りを一気に飲み干した。

 芳樹に肩を預けながら、静まり返った夜の住宅地をふらふらと歩き、ようやく帰宅した時には、すでに日付けが変わろうとしていた。
 輪花が住んでいるのは、東京郊外の戸建ての家だ。小さい頃に実家を引き払って引っ越し、今もここで父と二人で暮らしている。
 担ぎ込まれたリビングのソファにごろりと寝かされ、輪花はぼんやりと、明かりのいた天井を見上げた。すぐに芳樹がグラスに水をんできて、テーブルに置いてくれる。
 案の定、すっかり酔い潰れてしまった。いや、もともと酔い潰れるつもりでいたから、これでいいのだ。
「ねえ、お父さん……」
 着換えにいこうとする芳樹を、輪花は弱々しい声で呼び止めた。
「なんだ?」
「やっぱあれ……私に、嫁に行ってほしい?」
 自分がなぜそんなことを尋ねたのか──。輪花自身、よく分かっていなかった。
 芳樹が一瞬口をつぐむ。だがすぐにあきれた体で、「苦手なんだろ?」と言い返してきた。
「苦手なんだから、無理することないんじゃないかな」
「苦手って、何それ?」
 輪花は身を起こすと、ソファの上にどっかりと胡坐あぐらをかいて、ふてくされてみせた。芳樹が苦笑する。
「誰にでも得意不得意はあるだろ。お前、小学校の頃から、好きな子ができても自分から離れてしまうじゃないか」
「そんなことないよ」
「中学も高校もそうだった。苦手なんだよ、恋愛が」
 そう言って、芳樹はリビングから出ていった。
 輪花は無言で父を見送り、もう一度ソファに横たわった。
 再び天井を見る。まぶしい。視線を動かす。壁際の棚に、いくつもの写真立てが並んでいる。いずれも家族の写真だ。
 輪花が小学生の頃。中学生の頃。高校、大学、成人式──。
 どれも、父と二人で写っている。
 だがその中心に飾られている数枚だけは、違う。
 まだ幼い、園児だった頃の輪花。しわも白髪もない、若々しい芳樹。
 その二人と並んで立つ、若く美しい女性──。
「お母さん……。今頃どこにいるんだろう」
 母が家を出ていって、二十五年になる。
 輪花は目を閉じて、おぼろげな記憶を巡らせた。
 あれは──ここへ引っ越す前の町。
 場所は、近所の児童公園だったと思う。
 おもちゃの大きな指輪、いや、確かキャンディーだったか。それを指にはめて遊ぶ輪花に、母が言ったのだ。
「輪花の花嫁姿、早く見たいな」
 輪花はそれにこたえるべく、満面の笑みを浮かべ、指輪を母の前に掲げてみせた。そういうことではない、と今なら分かるのだけど。
 直後、ぎゅぅ、と抱き締められた。
「あなたは、幸せになるのよ」
 そのささやきが、輪花が覚えている母親の最後の声になった。
 あの日を境に、母は輪花の前から姿を消した。
 それから二十年以上が過ぎた──。輪花は、恋することができずにいる。

 ふと目を覚ますと、深夜の二時を回っていた。
 輪花は重たい体を持ち上げ、ようやくソファを離れた。
 シャワーを浴びるのすら面倒で、そのまま自分の部屋に移る。ドアを開けるとすぐに、壁中に貼られた何枚もの絵が、輪花を出迎えてくれた。
 どれも、自分が子供の頃に描いたものだ。白の画用紙にクレヨンで、つたない線が縦横無尽に引かれている。
 小さな女の子と、大きな男の人と、大きな女の人が並んで笑っている。これは輪花の家族を描いた絵だ。
 小さな女の子と、エプロンをした大きな女の人。きっと幼稚園の先生だろう。
 そしてもう一枚。小さな女の子と、赤い服を着た大きな女の人と、四葉のクローバー。これは……何の絵だったか。
 古い記憶の名残を漫然と眺めてから、輪花はベッドの上に、あおけに転がった。
 母が家を出ていった理由を、輪花は知らない。父は何か心当たりがあるようだったが、自分からそれを口にしたことはない。
 聞けば、何か分かるだろうか。
 しかし、それを聞く勇気は、自分にはない。
 理由を知るのが怖い。家族が突然いなくなるということは、よほどの理由があるに違いないからだ。
 親子三人で並んで笑っていた、その笑顔のどれかが、偽物だったはずだからだ。
 事実、母は輪花を裏切った。いつか帰ってくると信じていたのに、戻ってくることはなかった。
 父に理由を聞けば、また裏切られる気がする。輪花の知らなかった、知りたくもない一面を、嫌でも見せられることになってしまう。そんな確信が、どこかにある。
 だから──恋することも、怖いのだ。
 別れることになったらどうしよう。裏切られたらどうしよう。いや、いつまでも続く恋など、あるはずがない。たとえ夫婦であっても、ある日突然裏切るのだから。
 ──ああ駄目だ、こんなんじゃ。
 枕元のスマホを手に取る。ホーム画面に、いくつものアイコンが並んでいる。
 その中に、Wの文字が重なったアイコンがある。今日何度か名前を耳にした、マッチングアプリだ。
 まだ起動したことはない。勧められるままにダウンロードしたものの、指を触れることは一生ないだろうと思っていた。
 このアプリの向こうには、大勢の男性がいる。
 過去に会ったこともなければ、話をしたこともない。何を考えているかも分からない。まったく素性の知れない男達の、いったい何を信じればいいのだろう。
 ここにいる男の人達を信じたって、きっと裏切られる。
 信じて裏切られたら、もう二度と立ち直れない気がする。
 そう、片岡先生の結婚を盛大に祝った、今日のように。
 ──あなたは、幸せになるのよ。
「お母さん……」
 無理だよ、と言いかけた。
 でも──それは、母を裏切る言葉でもある。
 まだ酔いのめきらない頭で、輪花はゆっくりと、身を起こした。
 アプリに触れた。
 スマホの画面が白く染まり、すぐに「ウィルウィル」と書かれたタイトル画面が現れた。
 ──はじめまして。まずは、あなたのプロフィールを登録してください。
 そんなメッセージに誘われるがままに、輪花は軽く髪を直すと、まっすぐ自分にカメラを向けた。
 過去にとらわれた寝室に、一筋の光を走らせるかのように──。
 パシャリ、と乾いた自撮り音が鳴り響いた。

    

 水槽の、青白くくらい光に満たされた部屋で、ながやまは一人、黙々とスマホをいじり続けていた。
 閉ざされたカーテン。敷かれたままの布団。くことのない蛍光灯。
 まるで海の底のようなアパートの一室で、ただ水槽とパソコンだけが、かすかに各々のファンを鳴らしている。
 家具は、ろくにない。ゴミは、こまめに捨てている。
 スマホの画面をたたく。ケーブルでつながったパソコンに、アルファベットだらけのウィンドウがいくつか現れる。それを軽く目で追い、一度すべて閉じたところで、吐夢はいつものアプリを起動した。
 ──ウィルウィル。
 新着のプロフィールを一つ一つ確かめる。見知らぬ女達が、笑顔で、あるいはクールに、あるいは激しく加工された顔で、次々と現れては消えていく。
 自分を満たしてくれる女性に、吐夢はまだ出会ったことがない。
 顔が美しくなくてもいい。肌を重ね合う必要などない。ただこの孤独な心を優しく包み、ずっと一緒にいてくれるだけでいい──。そう思っていても、条件に合う女性はなかなか現れない。
 ウィルウィルだけではない。いくつものマッチングアプリで、何度も試した。
 何人もの女性と会い、失望させられてきた。
 最近はプロフィールを見ただけで、「地雷」が分かるようになってきた。
 例えば、露出の多い服を着ている女性。自分のSNSアカウントをアピールする女性。こういう連中は、どうせ自分を満たすことしか考えていない。だから、会う価値などない。
 プロフィールをひととおり眺め終え、吐夢はパソコンの前から立ち上がった。
 水槽に近寄り、のぞき込む。
 水の底に敷き詰められた白い砂の上に、ゴツゴツした灰色の塊が座す。まったく微動だにせず、岩のようでもあるが、よく見ればギョロリとした目と、大ぶりの口がついているのが分かる。
 ダルマオコゼ、という生き物だ。飼い始めて一年になる。
 まるで魚に思えない、このずんぐりとしたフォルムが、吐夢は好きだった。
 いや、オコゼだけではない。触手のようなヒトデ。寸詰まりのタコ。異形の虫──。海の底にいる生き物は、どれもいとおしい。
 さつそうと泳ぐことなく、誰からも目を向けられず、ただ奇怪な姿で静かに己の命を全うする。その様は、まるで自分自身を見ているかのようだ。
 水槽に小さく切ったイカを入れてやると、それまで岩のふりに徹していたダルマオコゼが、のそり、とうごめいて、白い塊に食らいついた。
 しばらく眺めてから、吐夢は視線をスマホに戻した。
 また、新着プロフィールが届いている。あまり期待せずに、開いてみた。
 ──リンカ。
 そんなハンドルネームとともに、写真が表示された。
 飾りっ気のない女だった。
 長い黒髪が微かに乱れ、メイクも少しばかり崩れている。服装は地味なスーツ。まるで、仕事から帰ってきた直後に何となく思いつきで撮った、というような、あまりにも雑な自撮りだ。
 写真は地味だが──素の美しさが分かる。
 黒く澄んだひとみ。すっと通った鼻筋。ふっくらとした唇。
 歳は二十九。都内在住で、OLとして勤務──。プロフィールに書かれている情報は、こんなところだ。
 吐夢は今一度、彼女の写真に目を向けた。
 背後に雑然とした部屋が写り込んでいる。自宅で撮ったのだろう。
 被写体と背景とを、交互に見た。何度も、何度も。写真の背景には様々な情報が隠れている。それが部屋の中ならばなおさらだ。
 何分ほど、そうしていただろうか。突如として「予感」めいたものが、はっきりと固まってくるのが分かった。
 ──この人だ。
 吐夢は思った。
 後々、この出会いが運命だったということを確信するが、今の気持ちははただ会いたいと願うのみだった。
 ──この人に、会いたい。
 ──リンカさん、貴方あなたに、会いたい。
 光にえる深海魚の如く、吐夢は渇望に震える指で「いいね」をタップした。

第二章 洗礼

    1

 マッチングサービス──。その市場規模は巨大で、今なお拡大している。
 マッチングアプリが若者達の間で広く認知されるようになったのは、二〇一〇年代前半。アメリカで大学生を対象として配布されたものがヒットし、後追いで次々と新しいアプリが世に出るようになったとされる。
 日本国内でも同様に、多くのマッチングアプリが出回っている。特にコロナ禍では、他者とのやり取りがオンラインになり、飲み会が自粛されるなど、出会いの場が広く制限されたこともあって、アプリの利用者が急増したという。
 不特定多数に自身のプロフィールをさらし、特定の相手と実際に出会う──。それだけ聞くとハードルが高そうだが、実際のところ、必要な手順はそう多くない。
 自分の顔写真や年齢、趣味などを登録すると、プログラムが独自の処理をおこない、同じ登録者の中から「合いそうな」相手を選び出す。もちろん、自分から好みの要素を絞って探すこともできる。そうして好みだと感じた相手を見つけたら、「いいね」などのサインを送ってアプローチをかける──。
 基本はこれだけだ。後は、向こうから同じリアクションがあれば、マッチングは成功。ただ、ここから先はメッセージのやり取りという、昔ながらのコミュニケーションが必要になる。
 実際に会ってデートするにしろ、連絡先を交換するにしろ、いずれも、そこにぎつけるだけの力量は、利用者個人にかかっている。マッチングアプリそのものは、あくまで出会いを提供するのみ。ある意味で健全だし、逆に言えば放任主義とも言える仕様だ。
 ただ少なくとも、こうしたアプリのユーザーは、ほぼ確実に「出会い」を求めている者ばかりだ。だから、普通に身の回りの人間を探して交際を申し込むよりは、はるかに成功率が高い……とも言われる。
 全体的な傾向としては、やはり若い利用者が多い。しかしアプリやスマホそのものの普及に伴い、年齢層も拡大傾向にある。
 そもそも──男女が出会いを求めてインターネットを利用する、という話は、決して新しいものではない。スマホが普及する以前から、パソコンのチャットルームを通じて出会いを模索する者は、後を絶たなかった。
 インターネットが現れるよりも前は、「ダイヤルQ2」と呼ばれるテレフォンサービスによる出会いも盛んだった。実際、Q2に関わっていた地方の会社が形態を変え、今ではマッチングサービス市場に参入している、というケースもある。
 人が恋を求める想いは、いつの時代も変わらない。逆に言えば──そこに付け込む悪意ある者達の存在も不変だ。
 売春。ストーキング。強制性交。結婚詐欺。美人局つつもたせ。マルチ商法や新興宗教への勧誘……。マッチングアプリの使用に端を発した事件やトラブルの報告は、こちらもやはり、年々増加の傾向にある。
 だから──本来なら、刑事である私がこんなものに手を出してはいけないのだろう。
 西山茜はそう思いながら、自室のベッドで、ぼんやりとスマホを眺めていた。
 ウィルウィルが表示されている。事件の捜査のため……ではない。純粋に会員になって、もう一年が経つ。
 警察官という職業に就いた頃は、結婚はおろか、恋愛のことなど一切考える余裕がなかった。仕事は常に激務で、休みなどあってないようなもの。何より、社会の治安を守り、正義のために生きると決意した自分が恋にうつつを抜かすなど、許されないことなのだ、と──。
 ……なぜそんな馬鹿げた理想を、あの時の私は、本気で抱えていたのだろう。
 四十を前にし、そう後悔することが、すっかり多くなった。
 非番の日に帰宅し、迎えてくれる人がいないガランとした部屋を目にした時のむなしさが、悪い意味で心に染みる。これならいっそ、職場に泊まり込んだ方が気が楽なのだが、あいにくこちらが女性であることを気遣ってか、周りが家に帰したがる。
 だから──家に一人でいると、どうしてもアプリを開いてしまう。
 今まで、何人の男とマッチしただろうか。
 数は覚えていない。幸いこの年齢でも、興味を持ってくれる男性はいると見えて、コミュニケーションを取った相手はそれなりに多い。
 中には、実際にデートをしてみた男性もいる。ただ、交際に至ったケースはゼロだ。
 不倫が目当ての妻帯者だったとか、詐欺の勧誘だったとか、そういう男もいた。しかし圧倒的に多かったのは、こちらが職業を明かした瞬間、態度を変えた男達だ。
 目を泳がせ、焦るようにして解散し、そのままフェードアウトした者。
 逆に好奇心をき出しにして、ちまたの事件について根掘り葉掘り聞き出そうとした者。
 いや、そこまで露骨でなくとも、ただこちらが警察官だというだけでしゆくし、交際を拒否しようとする男は多い。たとえ身にやましいところがなくとも、何か心に壁のようなものを感じてしまうのかもしれない。
 だから西山は、いつまでも孤独だ。自分が警察官でいる限り。
 め息をつきながら、アプリを閉じた。
 それからふと思い立ち、別のSNSを起動する。「アプリ婚」で検索すると、いくつもの投稿がヒットする。
 幸せそうなカップルの写真。やっかみ交じりのぼう中傷。怪しい広告。などなど。
 しかし、目当てはこれらではない。西山は目を走らせ、目的の投稿を見つけた。
 ──アプリ婚連続殺人。
 ニュース記事を引用したものだ。もうかなり拡散されている。
 現場はいずれも東京都内。利用者はすべて、マッチングアプリ「ウィルウィル」を通じて出会い、結婚している──。
 すでにここまでは、世間に知られた事実だ。
 特にウィルウィルの名が広まったのは痛い。当初、捜査本部はこれを犯人につながる有力な手がかりとして、公表を控えていたのだが、あろうことか何者かにネットで拡散され、週刊誌にまで書かれて一気に広まってしまった。
 犯人は、何らかの形でウィルウィルに関わる者──。確かに、そこは間違いないだろう。男と女が交わる場には、常にトラブルが生じる。古くからあるパターンだ。
 ただ、一つ問題があった。
 ……誰もいないのだ。これまでの被害者全員と関わる、共通の人物が。
 殺されたカップルは三組。人数にして六人。そのうち女性側三人と男性側三人を分け、過去にマッチした相手でかぶっている人物がいないかを、徹底的に調べた。
 しかし、あいにく該当者はなし……。中には、過去に詐欺や強制性交の前科があってマークされている者もいたが、いずれも被害者達との接点は薄く、ましてやカップル三組の殺害に至るであろう人物は、一人として見つからなかった。
 だとしたら──視点を変えた方がいいのかもしれない。
 例えば痴情のもつれのような、ありふれた個人のえんこんではない。もっと違う動機を持った、何者かの仕業……。
 そんなことを考えていたら、不意に部下の堀井からメールが入った。
『先輩、非番の日にすみません。また週刊誌にやられました』
「いったい何……」
 嫌な予感しかしない。ベッドに身を起こし、いくつか心当たりのある週刊誌のSNSアカウントを見る。
 すぐに、鮮烈な見出しが目に留まった。
 ──鎖で縛られ、顔を裂かれる! 幸せなカップルをつけ狙う、現代の猟奇殺人! アプリ婚連続殺人事件、その犯人像に迫る!
「ああ、やられた……」
 とてつもなく最悪な気分で、西山はうめいた。
 警察だけがつかんでいる情報がこれでなくなったのだ。
 記事を読めば、被害者の両手が互いに繫ぐように縛られていたことや、顔の裂き方がバツ印であったこと、現場に写真が残されていたことまで、細かく載ってしまっている。
 手口が世間に知られた。これから先、何が起こるか──。
 いくつもの悪い可能性が頭に浮かび、西山はいらちのあまり、スマホを枕に投げつけた。

    

「にしても、写真ひどくない?」
「べつにいいじゃん。こういうのでかっこつけるの嫌だし」
 隣の席から人のスマホを勝手にのぞき込んで駄目出ししてきた尚美に、輪花は仏頂面で言い返した。
 ナガタウェディングの昼休みは、特に時間で区切られているわけではない。スタッフごとに動ける時間が異なることもあって、だいたい休憩できる者から勝手に休憩していくことになる。
 それでも同じ部署にいる女性同士、休憩時間を合わせることはざらにある。今日も輪花は、尚美に加えて後輩のどうとともに、揃って弁当を食べていた。
 その会話の中で、自然とウィルウィルの話題になったのは、やはり先日の片岡の一件があったからだろう。尚美から散々「登録した?」と繰り返し聞かれ、輪花がついうなずいてしまったのが運の尽き……だったのかもしれない。
 今輪花のスマホの画面には、ウィルウィルに登録したばかりの自分のプロフィールが開かれている。改めて見ると、確かにひどい写真だ。
「いや、かっこつけろとは言わないけどさ。せめてメイクぐらい直した方が──」
「あー、ノーコメント」
 さすがに「酔った勢いでセンチメンタルになって撮った」とは言えない。仕方なく輪花が視線をらす。そのどさくさに紛れて、尚美がひょいとスマホを奪い取る。プライバシーも何もあったものではない。
「あ、でも輪花さんすごいじゃないですか」
 未菜が向こうの席から身を乗り出し、これまた勝手に、輪花のプロフィールをスクロールする。この後輩、悪いところばかり尚美に似てきているから困る。
「いいね百十三件。私なんか二十件くらいしかないのに」
「そういうの、いちいち確かめなくていいってば」
「未菜、こういうのは量より質なの。どれどれ……あ、ほら、この辺明らかに地雷じゃん。はいブー。これもブー。ブー。ブー」
 尚美が勝手に男性側のプロフを整理していく。輪花はあきれながらも、彼女に任せておくことにした。
 どうせ酔った勢いで登録しただけのものだ。本気で期待などしていない。煩わしい作業を代わりにやってくれるなら大助かりだ。
 ……と、そう思いながら冷めた弁当を頰張っていたら、不意に尚美の指が止まった。
 何やら、気になる男性がいたらしい。
「これどう? トム。二十五歳」
 にゅっ、と顔の前にスマホが突き出された。
 輪花が目をやると、そこには一人の若い男性が写っていた。
 やや伸びた金髪。前髪で覆われ気味の黒目がちなひとみ。人懐っこそうな、さわやかな笑み。
 外見は──確かに悪くはない。
「年下だね。……お、相性すごい。マッチング率97パーセント出ました!」
 尚美が声を張り上げる。周りの同僚達が「おー」といっせいに拍手をした。
「じゃあ、いいね返しとくよ?」
「返さなくていいから……」
 さすがにそこまでお任せにはできない。輪花は急いで手を伸ばし、尚美からスマホを奪い返した。
 そんな時だ。室長のなべひとしが声をかけてきたのは。
「伊藤さん、唯島さん、ちょっといいかな?」
「はい、輪花ならば何なりと」
 尚美が笑顔でこたえる。輪花が軽く彼女をにらむのを、田邊は「いつものこと」と言わんばかりに軽く流し、すぐさま本題に入った。
「二人とも、明日の午前中空いてるよね? 十一時から取り引き先とのミーティングがあるんだけど、ちょっと出てほしいんだ。急で悪いけど」
「取り引き先?」
「ウィルウィル。マッチングサービス会社。聞いたことない?」
 それなら──よく知っている。
「今、そのウィルウィルと共同企画を進めてるところでね。先方がきゆうきよ現場の声を聞きたい、と。特に現場主任のかたにはぜひってことだから、よろしく頼むよ、唯島さん」
 有無を言わさぬ調子なのは間違いなかった。輪花が頷くと、隣で尚美が「奇遇じゃん」とささやいた。
 とりあえず、もう一度睨んでおいた。

 平日ともなれば、式を挙げるカップルは多くないが、それでも顧客との打ち合わせは常に入る。むしろ、そのための時間といってもいい。
 この日は午後から新婦のドレス選びがあった。母親同伴で訪れた彼女は、二十代半ば。ウェーブにした髪を茶色に染め、メイクは濃く、肌もこんがりと焼けている。決して偏見を持っているわけではないが、彼女があまり全うな生き方をしてこなかったことが、親子の会話の端々からうかがえた。
 それでもウェディングドレスを試着した姿は、正真正銘、幸せに満ちた花嫁だった。
「あんたも、幸せになるのよ」
 母親に優しく言われて涙ぐむ新婦を、輪花はどこか自分に重ねるような気持ちで見つめていた。
 ──輪花の花嫁姿、早く見たいな。
 ──あなたは、幸せになるのよ。
 自分の母が去り際に囁いたあの言葉が、どうしても頭の中によみがえった。
 だからだろう。帰りのバスの中で、輪花がふと思い立ち、ウィルウィルのアプリを起動したのは。
 昼休みの時よりも、いいねの数が増えている。ざっと眺めたが、やはり気になる相手は、あの金髪の笑顔の青年だけだった。
 トム。二十五歳。マッチング率97パーセント。
「──まずは第一歩」
 過去に立ち止まり続ける限り、幸せにはなれない。
 輪花はつぶやき、そっと「いいね」を返した。
 ──マッチングが成立しました!
 自分とトムの写真が左右に並び、そんな文字が表示される。次のステップでは、実際にメッセージのやり取りをすることになるようだが、今はひとまずここまででいいだろう。
 そう思ってアプリを閉じ、スマホをバッグにしまおうとした時だった。
 不意に、通知音が鳴った。
 もう一度画面を見ると、ウィルウィルにメッセージが届いていた。
 立ち上げると、すぐに新着通知の表示とともに、トムの顔写真とメッセージが画面に映し出された。
『リンカさん、はじめまして。トムと言います。マッチングありがとうございます。よろしくお願いします!』
「……え、早すぎ」
 いいねを返して、まだ一分と経っていない。あんな爽やかな風に見えて、意外とがっつくタイプなのか。いや、マッチングサービスを利用している以上、それが普通なのかもしれないが。
 輪花はよく分からないまま、片手で文字を打ち込んだ。
『よろしくお願いします』
 我ながらつまらない返事だ、と思ったが、これ以上の言葉が思い浮かばない。とりあえず送信し、今度こそスマホをバッグにしまう。
 直後、また通知音が鳴った。
 タイミングよくバスが目的地に着いたので、輪花はひとまず無視しておくことにした。
 それから帰宅するまでに、トムからのメッセージは二十件近く届いていた。

    

「いいじゃん、それだけ積極的ってことでしょ」
 尚美の楽観的な言い方に、輪花は「本当にそう思うの?」と、今朝から何度目かの疑問をぶつけ返した。
 一夜明け、出勤したナガタウェディングのオフィスで、当然のように尚美からしんちよく状況を聞かれた。そこから先は昨日とまったく同じ流れだ。瞬く間にスマホを奪われ、今は昨夜のトムとのやり取りを入念にチェックされている。
 主に、輪花が駄目出しされる形で。
「確かにメッセージ量すごいけどさぁ、べつに変な質問とかされてるわけじゃないし。ていうか、むしろ輪花の方が素っ気なさすぎ」
「だって……何話せばいいか分からないし」
 輪花は唇をとがらせて答えた。
 昨夜帰宅した後、落ち着いてからトムとのやり取りを再開した。彼からのメッセージはすでに何十件もあったが、普段何をしているかから始まり、互いの仕事や趣味のことなど、どれも言ってみれば普通の会話のはんちゆうだった。
 そもそも、トムのメッセージの大半は、自己紹介に費やされている。いわく、仕事が不定休。曰く、生き物が好き。曰く、人ごみは苦手──。ならば輪花もそこに乗っかり、自己紹介を交えて会話をつなげていくのが自然だろう。
 なのに、輪花のレスがいちいち素っ気なかったのは事実だ。
『そうなんですか』
『そうですね』
『そうだと思います』
 ……だいたいこんな返答しかしていない。これではむしろ、トムの方が困惑していたのではないか。
 どうすれば輪花が会話に乗ってくれるのか。試行錯誤するうちに、自然とメッセージの量が増えて、一方的なやり取りになってしまった──。案外そんなところかもしれない。
『僕ばかり話してすみません! リンカさんの話も聞かせてください』
 メッセージはそこで途切れている。ついさっき、出勤中のバスの中で届いたのが最後だ。
「ほら、ちゃんと応えてあげなよ。でないと、代わりに私が応えちゃうよ?」
 尚美がそう言いながら、輪花のスマホをいじり出す。何となく眺めていたら、どうやら本気で何か書き込もうとしているらしい、と気づいた。
「ちょ、何やってんの!」
「あー、いいからいいから」
「よくないっ!」
 慌てて尚美の手からスマホをもぎ取ろうとしたが、遅かった。
『今度ぜひお会いしましょう』
 そんな──予想以上に積極的なレスが、輪花のスマホからトムのもとへ、勝手に送信されたところだった。
 思わず天井を仰ぐ。隣で尚美が笑っている。
 そこへ、室長の田邊が近づいてきた。そういえば、これからウィルウィル社とのミーティングがあるのだ、と思い出した。
「唯島さん、伊藤さん、そろそろ時間だよ」
 言われて、輪花はゆううつな面持ちで立ち上がった。

 田邊と他数人に輪花、尚美を加えて会議室に入ると、すでにウィルウィル社から来た三人が着席して待っていた。
 スーツ姿の男性が二人と女性が一人。さっそく名刺の交換をし、順番にたくかげやまつよししいかえでという名前だと知る。この中では紅一点の楓が企画担当者で、影山はアプリ開発に携わっているチーフエンジニアだという。和田については「総合イマジネーション部長」という、よく分からない肩書きだけが添えられていた。
「それでは、うちウィルウィルと、ナガタウェディングさんの合同企画始動ということで、よろしくお願いします」
 正面のスクリーンに映し出された企画書の前に立って、和田がさっそく進行を始めた。
 和田は年齢不詳の童顔の持ち主である。表情は終始にこやかだが、営業用の作り笑いなのが露骨に分かる。一方で、時おり眼鏡越しにめるような視線をこちらに送ってくることがあって、輪花は内心へきえきした。
 ちなみに企画の内容については、まだほとんど固まっていないようだった。ただ、出会いを提供するマッチングサービスと、そのゴールである結婚式を結びつけ、カップルの交際を全面的にサポートしていく──というのが趣旨らしい。
「ちなみにお二人は、いかがですか? マッチングアプリ、使ったことあります?」
「え? あ、いえ……」
 突然和田から話を投げかけられて、輪花がとっさに首を横に振りかける。だが、尚美がすかさず口を挟んだ。
「もちろんありますよ。唯島も、ついこないだからウィルウィルさんに。ね?」
 余計なことは言わなくていいのに、と輪花がにらむ。だが、今の尚美の一言で場が和んだのは確かだった。
「本当ですか? それはありがたい! なあ、影山?」
「いや、僕に言うなって──」
「唯島さん、うちのアプリはこの影山が作ったんですよ。こんな無精ヒゲ生やしてますけど、有能でね」
「ヒゲは関係ないだろ」
 和田の軽口に、影山がいちいち照れた笑いを浮かべてみせる。
 その時輪花は、初めて影山剛の顔をきちんと見た。
 大人びた、優しい顔立ちだった。
 歳は三十代後半といったところか。緩く伸ばした黒髪と、上唇にわせたくちひげが、どこか野性味を感じさせる。それでいて、和田が言うような無精さはまったくない。よく見れば髪もヒゲも丁寧に整えられ、完成されたファッションとして、彼のルックスにんでいるのが分かる。
「今回の企画会議でお二人に参加していただいたのも、影山の発案なんですよ。特に主任コーディネーターのかたにはぜひ、と」
「もう、余計なこと言うんじゃないよ」
 影山がまた笑う。内側からにじみ出るようなその笑顔には、和田と同じ作り物めいた感じが一切ない。
「……影山さん、笑顔が素敵」
 思わずれていると、耳元で尚美がささやいた。輪花は軽く小突いておいた。
 ひととおり緊張がほぐれたところで、和田が正面のスクリーンに、データを映し出した。アプリの利用者数と年齢・性別を示したグラフで、やはり二十代を中心に増加傾向にあることが分かる。
「こうして見ると、なかなかの数ですね」
 田邊が感心したようにうなずく。だが和田は、その作り笑いを苦笑の形にゆがめてみせた。
「だといいんですがね。まあ、ちょっとここ一ヶ月は、例の件がありまして」
「例の件?」
「ご存じありませんか? これです」
 そう言って向かいの席から椎名楓が、自分のタブレットをすっと差し出した。
 画面に週刊誌の記事が表示されている。見出しの中に「アプリ婚連続殺人事件」の文字を見つけ、輪花はピンときた。
 先月からちまたを騒がせている有名な事件だ。マッチングアプリを通じて交際、結婚に至ったカップルが殺害されるというもので、そのアプリが他ならぬウィルウィルであるという事実も、すでに世間の知るところとなっている。
「被害者がうちの利用者だっていうのがネットで広まってから、登録者数が一気に減ってしまったんです」
「ひどい話ですね。しかも、これ……」
 田邊が記事に目を走らせ、絶句する。
 ──鎖で縛られ、顔を裂かれる!
 あまりにも残忍な手口が、誌面に躍っている。今まで「殺害された」という表現でしか報道されていなかったはずだが。
「これはつい昨日発売された週刊誌です。ていうか……こんな殺し方だったんだって、初めて知りました」
 楓が不快そうに顔を歪めた。田邊も尚美も、影山も和田も、誰もがそれに倣う。
 いったいどんな人物が、何の目的で、こんなおぞましい犯行を繰り返しているのか。各々が心の中に、思いつく限りの凶悪な犯人像を浮かべているに違いない。
 輪花も同じように想像を巡らせ──ふと思った。
 ……意外と、誠実な人かもしれない。
 なぜそんなイメージをしたのかは、自分でも分からなかった。
 ただ、犯人が毎回同じ殺し方をちようめんに繰り返す様から、何となくそう感じた──。それだけかもしれない。
 そんな時だ。不意に、輪花のスマホが震えたのは。
 チラリと目を向ける。ウィルウィルのアプリに、トムからのメッセージが届いていた。
『メッセージありがとうございます。うれしいです。いつお会いしましょう?』
 ……来てしまった。それはそうだろう。会いましょうと送れば、そうなる……。
 今さら断ることはできない。輪花は、隣からチラチラとスマホをのぞき込んでくる尚美を、無言で睨み返すのだった。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介

マッチング
著者 内田 英治
発売日:2024年01月23日

2024年2月23日公開 映画「マッチング」原作小説
ウェディングプランナーの仕事が充実している一方、恋愛に奥手な輪花は、同僚に勧められ、渋々マッチングアプリに登録。この日を境に生活が一変する。マッチングした吐夢と待ち合わせると、現れたのはプロフィールとは別人のように暗い男。恐怖を感じた輪花は、取引先でマッチングアプリ運営会社のプログラマー影山に助けを求めることに。
同じ頃、“アプリ婚“した夫婦が惨殺される悲惨な事件が連続して発生。輪花を取り巻く人物たちの“本当の顔“が次々に明かされ、事件の魔の手が輪花に迫るのだった。誰が味方で、誰が敵なのか――。出会いに隠された恐怖を描く新感覚サスペンス・スリラー!

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322308001314/
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